布団の中で眼が覚める。こんな単純な出来事が、阿弥陀さんを証明していたとは。やはり、これは「絶対他力」が〈真実〉であることを教えている。この目覚めという、些細な出来事から推していくと、生きることのすべてが「絶対他力」で成り立っていた。どこにも「自分」というものはない。「自分」という思いすら、「絶対他力」で、そう思わされているのだから、これは「絶対他力」の外に出ることはできない。これが「摂取不捨」だったか。
でも、この考え方だと、キリスト教の「神」と阿弥陀さんとを入れ替えても同じことが言えるのではないかとも思った。どこがどう違うのだろう。キリスト教が、この世のすべてを神様が創ったと言うとき、それは「絶対他力」に似ている考え方になる。ただし、そうなると困ったことに、この世で起こっている人為的災厄、つまり戦争や差別とかをどう考えるのかという難問に突き当たる。この世のすべてのことを神様が創ったとなると、現在起こっている戦争をどう考えるのか。戦争も神様が創ったのかと。それでこの問題を解くために、キリスト教の方々は、いろいろと苦心されているらしい。私の聞いているところで言えば、この世を創ったのは神様だけれども、人間を信頼して、一定期間貸し出しているのだそうだ。だから、この世をどのような世界に作っていくのかは、人間の努力次第ということになる。もちろん戦争は人間の罪であり、これを力を合わせてなくしていくことに努力せよという論理になっているらしい。こう解釈すれば、神様には、戦争の責任を負わせなくて済む。どこまでも人間の罪ということに還元できる。
それでは阿弥陀さんはどう考えるか。戦争も「絶対他力」の範疇に違いない。人間の行いのすべてが、阿弥陀さんのせいなのだから。それでは阿弥陀さんは戦争をしろと言っているのかと言えば、それは違う。戦争を起こすこころは、「自力のこころ」である。つまり、自分の力で相手を暴力でもってねじ伏せ、自分の意志を通そうとする浅ましいこころだ。この「自力のこころ」を自覚して、「絶対他力」の〈真実〉に目覚めてほしいと願っておられる。そもそも、「自分」という思いが主人公になり、そのことの無自覚が戦争を引き起こす。「自分と他者」を分け、「自国と他国」を分けて考える発想の元のところには、「自」という「思い」が必ずある。曇鸞は、これを「我心貪着自身」と言っている。「我が心が自身に貪着すること」である。これは元々、人間は善い心を持っているのだが、それを忘れて「自身に貪着すること」の間違いを指摘しているのではない。元々、人間は「我心貪着自身」なのだと教える言葉である。これを簡単に言えば、人間は元々「戦争の好きな生きものであり、差別の好きな生きもの」という意味だ。これは誤解を受ける言い方かも知れないが、〈真・宗〉は「性善説」ではなく、「性悪説」だ。人間の本来性を「善」ではなく、徹底的に「悪」に見る。
「性悪」だからと言って、そんな人間を阿弥陀さんが「創った」とは言わない。人間が、このようにあることは人間の意志を超えているものだと受け取るだけだ。だからと言って、人間を「創造した」とは考えない。そう考えてしまうと、すべての責任を阿弥陀さんに擦り付けることになるからだ。だから、人間がなぜこのようにあるのかは、人間には分からない、人間の知では届かないことだとしか受け取らない。もし「創った」と言ってしまえば、誰が「創った」のかということになり、その誰かを誰が証明できると言うのだろうか。鈴木大拙が、「はじめに神は天と地とを創造された」と創世記に書かれているが、それをそのように書き留めたひとは、誰なのだろうという問いを投げている。だから、「創造」という発想には、どうしても無理が生まれる。
〈真・宗〉は「創造」という発想を採らない、むしろ「有る」とか「成る」という発想だ。だからそこには、人為的な匂いが残らない。動物的でなく植物的なモチベーションでできあがっている。
話を元に戻そう。阿弥陀さんは、戦争や差別を引き起こす根っこを「自力のこころ」と教え、「自力のこころ」は幻想であり、〈真実〉は「絶対他力」であることに目ざまそうとする。自分も「絶対他力」で動いているのであれば、他者もそのように動いている。それは他者ばかりではなく、あらゆる事物がそのように動いている。自他、そして全世界そのものが、阿弥陀さんの「絶対他力」の顕現であれば、そこには温和な調和が生まれる。なぜなら、そのように営まれているすべてが、阿弥陀さんのなされていることだからだ。「自と他」とは、表面上分離されているが、その淵源というか、背景を考えれば、すべては阿弥陀さんの顕現である。そうだからと言って、「自力のこころ」が無くなることはない。「自力のこころ」も阿弥陀さんの「絶対他力」で運営されているからだ。しかし、それが「結論」ではない。それは、どこまでも「絶対他力」を自覚させるための阿弥陀さんの教材なのだ。「絶対他力」は、人間に決して「結論」を与えない。つまり、「これが絶対他力なのだ」という「結論」を与えない。人間が人間の知によって捉えた「他力」などは、幻想だと蹴散らしてしまう。人間が出した「結論」は、人間を決して幸せにはしない。「結論」を欲しがるのは、「自力のこころ」そのものの仕業なのだ。「自力のこころ」は「結論」を持つことが幸せなことだと勘違いしている。「結論」を出して安心したいのだ。それは「自力のこころ」が阿弥陀さんを手づかみにすることになる。そうなると、自分が「摂取不捨」の主体になり、阿弥陀さんは摂取される対象になってしまう。〈真・宗〉は、自分が阿弥陀さんに「摂取」されるのであって、逆ではない。
本当の敵は、自分の外にはいない。つねに自分の内面にいるのだ。