「客観」を信じたら、自分を失う

「『客観』を信じたら、自分を失う」と叫んでいることろで目が覚めた。小生はどこかの場所でお話をしていた。そして、黒板に、そのようにチョークで力強く書きながら、「これだけは大事なことですから、これだけは忘れないで下さい」と言い終えて、話をお終いにした。
 「客観」とは、第三者が見ても正しいと思えることの総称だろう。つまり、自分ではないお客さんが、ご覧になってもそれは間違ってはいないと太鼓判を押してくれる〈真実〉という意味だ。煎じ詰めると、この発想は、「自分が生きる」のではなく、「自分をお客さん」にしてしまうことになる。「自分」が生きているのに、それに自信が持てず、あたかも「お客さん」が生きているかのように生きるのだ。せっかく人間に生まれ「自分」を生きるチャンスを与えられているというのに、それを捨て去り、「お客さん」として生きてしまうとは、なんともったいないことをしているのだろう。
 「客観」という言葉の意味を確かめたくなり、『広辞苑』を調べた。すると、⑴主観の認識ないし行動においてその対象となるもの。⑵主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの」と出ていた。その中に「客観主義」という言葉があり、「真理の基礎を主観から独立した実在のうちに置く立場」と書かれてもいた。「真理の基礎を主観から独立した実在のうちに置く」ということは、「主観」つまり、「自分」には真理がないという前提の考え方で或る。
 卑近な例で言えば、「平均寿命」というのがある。これも『広辞苑』によると、「零歳における平均余命。二〇一六年における日本人の平均寿命は、男八〇、九八。女八七、一四年。」とあった。厚労省の発表によると、二〇二二年には、「男八一、〇五。女八七、〇九」と若干の変動はある。そしてこのデータを「客観的な真実」と見て、そこから自分の寿命を計ろうとする。平均寿命を越えれば、自分の人生はまずよし、越えなければダメだと考える。問題が出てくるのは、平均寿命まで生きられなかった場合と、平均寿命を越えてしまった場合だ。平均寿命が「客観的な真実」だ考えれば、それを目標にするという生き方になるし、それを越えてしまえば、後は「お釣り」をもらったような、いわゆる「余生」が待っている。
 しかし、個別な人々の現実には、この「平均寿命」が当てはまらない。もし男である私が、「平均寿命」に達してしまえば、その年に死ななければならないことになる。また「平均寿命」まで生きたのだから、もって瞑すべしだ、それで満足だろうという声すら聞こえてくる。自分が介護が必要な場合には、周りの人々から、「もうそろそろ往かれてもよいのではないですか」という無言の声も聞こえてくる。「姥捨て山」を題材にした、『楢山節考』(深沢七郎)は、昔の話ではなく、まさに現代の問題である。
 それもこれも、すべては「客観的な真実」という幻想が生み出した悲劇だ。「平均寿命」は、どこまでもデータであって、個別のいのちとは無関係であると切り分けなければならない。そうは言うものの、自分でも、若くして亡くなられたひとは「可哀相だと思い」、百歳でなくなられた老人は、それほど「可哀相とも思わない」という事実があるから、ちゃんとそこを切り分けられていないのだ。それほどまでに、「客観的な真実」という幻想は猛威を振るっている。まさに「荒ぶる神」だ。この神の犠牲者になっているので、この神の恐ろしさを骨の髄まで知っている。
 しかし、どこまでこの神に侵襲されても、この神を「幻想」だと訴え続ける力がある。〈真実〉ではないと強靱に批判する力。それは自分の内部ではなく、外部からやってくる。そして、それは「幻想」だと教えて、「幻想」の酔いを醒ます。
 そこで初めて、「素面の自分」を取り戻すことが出来る。親鸞が「邪見憍慢」(正信偈)というのは、「素面の自分」を取り戻した宣言だ。「邪見」とは、「客観的な真実」を崇拝する発想であり、「憍慢」とは、その発想を元にして、「自分をデータに置き換え、その上で、おごりかたぶっていること」だ。「自分」をデータにするとは、「比べる世界」の中に位置づけることだ。それこそ「比べる世界」こそが、「客観的な真実」だと思い込まされて。
 まあ厳密に言うと、「憍」と「慢」は違う。「『憍』はおのれの性質(美貌や若さや血統や学識など)をすぐれたものと考えて、自己に執着する心のおごりであるのに対して、『慢』は、おのれは他人よりもすぐれていると妄想して、他人に対して誇りたがる心のおごりである。」と『仏教語大辞典』(中村元)には出ている。そう言われると、「慢」よりも「憍」のほうが深いものだろう。「慢」は他者と比べているから、まだ比べるていることを自覚しやすいが、「憍」は、比べる他者がいなくてもはたらいているからだ。力の強いものは、知らず知らずに力強いことに自信を持ち、健康なものは、知らず知らずに自分が健康であることに自信を持っている。財産を持っているものは、知らず知らずに自分が金持ちであることを誇っているということだ。そうなると、「憍」から逃げ切れる人間はひとりもいないだろう。
 そういえばかつて母が門徒さんと話しているとき、妙なことを自慢しあっていたことを思いだした。門徒さんが、「私は身体のここが悪いのよ」と話すと、母は、「あなたはまだいい方よ、私なんかもっと酷いのよ」と。その隣にいた門徒さんは、「奥さんはまだいいほうよ、私なんかもっと酷いのよ」と、いわゆる「病気自慢」をしていた。「病気」は、とても自慢をするようなことではない。むしろ哀れまれることだが、人間は「病気」すら自慢のタネに変えてしまうのだ。それもこれも「慢心」に操られていることを知らずに、操られているという悲劇だ。
 親鸞は、「邪見憍慢」を「悪衆生」(「正信偈」)と言っている。「邪見憍慢」なんだから仕方がないとか、「邪見憍慢」ではダメだとも言っていない。ただそれを「悪衆生」と。その有り様を「悪」と言い当てているものは、自分ではない。自分を「悪」として照らし出すひかりだ。ひかりに照らされた感動の言葉が「悪衆生」だ。このひかりがなければ、「邪見憍慢」は見えなかった。ひかりに照らされることで、初めて「悪衆生なる自己」を取り戻したのだ。自己の誕生宣言が「悪衆生」である。
 それもこれも煎じ詰めれば、「客観的な真実」は幻想だと教えて、「素面の自分」を取り戻すための阿弥陀さんの救済活動である。今朝、布団の中で眼を醒ましたこと、そのことが「絶対他力」の証拠だから、一から十まで、自分など出る幕は、どこにもなかったのだ。