「悲喜交々」は「思い」の中にしか住めない

「経済」とは、「経世済民」の略語だそうだ。「世を経て民を済う」と読む。また「政治」は、「政(まつりごと)によって治める」である。これは、もともと「祭事」か「奉事」からやってきた言葉で、第一義は「祭祀権者が祭祀を行うこと」だった。(『広辞苑』第七版)こうやって分析すると、「経済」も「政治」ともに、「人間の救済」ということを目的としていることが分かる。もっと煎じ詰めれば、「経済」も「政治」も、「宗教現象」ではないか。
 以前の法語に、「食は一時の飢えをしのぎ、財は一生の貧しさをすくい、法は永遠の空しさをすくう」というのがあった。この法語を読むと、確かにそうだなと思わされる。しかし、問題は「食」と「財」だけで終わってしまい。そこから「法」までには届かないのが現状だ。この現状を阿弥陀さんはどうご覧になっているのだろう。
 今朝も、布団の中で眼が覚めた。こんな単純なところにも阿弥陀さんがはたらいているというのに。自分で眼を覚ますことすらできない存在なのに。すべては阿弥陀さんの為されることなのに。
 阿弥陀さんを思うということすら、阿弥陀さんに思わされて、そう思っているに過ぎない。別に阿弥陀さんという実体があるわけでもないというのに。ああ、「自分」ではなかった。ああ、阿弥陀さんのご催促。
 こんなに単純なことひとつが、「自分」ではない。すべてが阿弥陀さんの為されることだったとは。次の瞬間に何を思うか、そして何をするか。その一つ一つが、「自分」には知らされていない。「思った後」、「した後」にしか知らされない。「自分」は阿弥陀さんの後を付いていくだけだった。まあ、この世は阿弥陀さんの教育現場なので、それも仕方がない。「浄土」とは、こんな身近に、その一瞬先にあったのか。決して人間の「思い」の届くことのない幸せ。人間の「悲喜交々」は、「思い」の中にしか住めない。「思い」の中にしか住めないんだよ、と叫ばれる続けている阿弥陀さん。その「思い」の世界を脱ぎ捨てて、「思い」の届かない〈真実〉に目覚めよと叫ばれる。阿弥陀とは、「無量」という意味で、突き詰めれば「絶対不可知」という意味だ。このカラクリを知ることが「救い」である。