「事物」を「意味」から解放する

「事物」を「意味」から解放する。
 起きる寸前の前に、養老孟司先生と歩いている夢を見た。新宿辺りの街を、並んで話をしながら歩いている。まあ、いろんな話をしたのだが、話の内容は忘れている。しかし、目覚める直前の話は、ありありと覚えている。私は養老先生に向かって、「先生のおっしゃっていることは、ほぼ仏教が語ってきたことなんです。でも、我々には、「阿弥陀さん」がいるんです。南無阿弥陀仏なんです。そこが先生とは違う所なんです」と語った。先生は、私の言葉をどのように理解したらよいのだろうかと、少し戸惑った顔をされていた。そして、「物事をちゃんと考えて、ひとと対論するのには、どのようなシチュエーションが最適なんだろうね?」と私に問いかけてきた。いまは街を歩きながらいろいろとお話いただいているのだが、本当は、屋内の一室のほうがよかったのかも知れないと内心で思った。つまり、いま、何のために歩いているのかと言えば、それは養老先生へのインタビューだったからだ。それから、何やらお話をしながら歩き始めたとき、突然、地震が起こった。新宿の街にあるビルの壁面が崩れ落ちてきた。街を行き交う人々の悲鳴が起こり、人々は慌てて走りだしていた。私は、ここにいたのでは危ないと思い、先生のお宅までタクシーにお乗せしてお帰りいただこうと、タクシーを探した。しかし、車がひとつも走っていないではないか。これは困ったと思っていると、S君が現れ、「どうしたのですか?」というような顔でやってきた。私は事情を話し、先生をだっこして、タクシーが通りそうな大通りを探していた。
 そんな場面で夢が覚めた。その夢とどう関係するのかは分からないのだが、「『事物』を『意味』から解放する」というテーゼが頭に浮かんだ。「事物」は、私には思いも及ばないほど綿密な「因果関係」、つまりは「縁起」で出来上がっている。華厳の世界では、それを「事々無礙」とでも言うのだろう。「事物」と「事物」が綿密な関係性でできあがっている状態のことだ。「事物」の存在の背景を考えると、気が遠くなるほどの「関係性」をもっている。たとえば、目の前にある「本」を見れば、その背景が無限に広がっていき、思いを遙かに超えてしまい、陶然としてしまう。「本」は、綿密な関係性の結果、一つの「本」という「事物」となって、目の前にある。表紙はワインレッドのような色彩に仕上がっているのだが、それは赤色のインクが、そのような光となって私の眼に飛び込んでくるのだ。そのインクは何からつくられているのだろうか。また「本」は紙という素材で出来上がっているのだが、もともとパルプという樹木の繊維で織り上げられているのが本である。その木はどこに生えていた木なのか。果たして、その木が芽吹いた時は、どのような気候で、どのような土壌の状態だったのだろうか。その木だって、その木を生んだ親の木があるはずだ。いのちは、ポツンと、何の関係性もなく存在することはできない。必ず、この世に存在する限り「関係性」がある。その「関係性」をどんどんと辿っていくと、人間の思いでは追いつかない。その遙かな「関係性」を背景として、いま一册の本が目の前に置かれている。
 さらにこの本は、机の上の、他の本の上に置かれているのだが、その位置が真っ直ぐではなく、斜めに置かれているのだ。この角度を決めたのは誰か。それはその背景に、私という存在が関与している。そのように置いたのは私だのだから。しかし、なぜそのような角度に置いたのかは、自分でも分からない。またそのように置くべき因縁があって、そのように置いたのだろう。そのように置いた私といういのちの淵源を辿っていけば、これまた自分の思いを遙かに超えてしまう。
 それを他の事物にまで眼を広げてみれば、私を取り囲む事物は、「永遠」なる関係性で出来上がっていることが分かる。決して人間の思いでは届かないほどの出来事で織り上げられている。だから、「事物」を、人間が「分かった」と「意味化」してはならないのだ。「事物」を、人間の思いを超えているものとして、「意味」から解放しなければならない。
 木村敏先生が、かつて言われたように、「モノの本質はコト」なのだから。モノは眼で見ることができるが、コトは眼には見えない。私の譬えで言えば、「本」というモノは眼に見えるが、本が本にまで成ってきた背景、そして本が本としていま目の前にあるコトは見えない。人間が眼で見てしまえば、そこにはモノしか見えない。コトはつねに五官を超えている。
 養老孟司先生は、生きている人間には配慮が必要だから臨床医は大変だと言う。それで自分は解剖を選んだそうだ。解剖医だから、生身の人間ではなく「遺体」を扱うのだから、配慮は必要ないと。つまり、「遺体」とは「事物」そのものなので、モノとして扱うのだから、それをどう扱うかは、いわゆる自己責任なのだと言っている。それでも「手」と「顔」の解剖には、こころが動くそうだ。つまり、「遺体」としての「事物」であっても、モノとして扱いにくいと。それをみずから問われて、やはり、「手」と「顔」には表情があり、つねに動いている部分だからであり、それは「感情」を伝える器官だからなのだろう。
 人間は、どうしても「事物」そのものをモノとして扱うことができないのだろう。でも、それはもともと人間には見ることのできないモノだからではなかろうか。眼で見ることができないから、「意味」付けせずにはおかないのかも知れない。見ているままが、見えていないとは、ものすごいことになってきた。
 目の前の本を見つめていると、そこに地球が成り立ってくるまでの背景を思わずにはいられない。このすべての背景がなければ、この本一冊が、そこにあることができなかったのだから。それも「意味」付けに過ぎないのだが、「意味」付けすることそのものが、本来は「意味」付けできないことを表しているのかも知れない。
 親鸞が、「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(「浄土和讃」)と言うときの、「なづけたてまつる」が重たい。本質的に、名づけることの出来ないものなのに、敢えて阿弥陀と名づけさせていただくと。名づけるとは、人間が「意味」付けすることで、阿弥陀を手づかみにすることだ。その罪を「なづけたてまつる」と表現している。しかし、名づけなければ、人間には触れ得ることができない。
 「事物」を「事物」として解放せよと阿弥陀さんは叫んでおられる。決して人間の「意味」の世界に引きずり込んではいけないと。