昨日は、明福寺(港区三田)の報恩講だった。話し始めるまでは、「現世」にいたが、話し始めたら「夢中」に入ってしまった。まさに「夢の中」を一人で歩かされている感覚だった。それは、第三者から見れば、私が話し手となって話しているように見えるのだが、私の内面では、私が聞き手にさせられていたということだ。次にどんな話題になるのか、私には知らされていない。「夢の中」で、次から次と話題が提供され、それに応じて言葉が生まれてくる。だから、私が「話している」のではなく、「話させられている」というのが〈ほんとう〉のことだ。
話とは、現象的に見れば、私の喉にある声帯が震え、それが空気の振動となって、聴衆の耳にある鼓膜を揺らすという単純な出来事だ。しかし、その音声は音声であることに留まらず、必ず「言葉」となって聴衆の心に突き刺さる。私の発する音声は、私の深奥から生まれてきて「言葉」となる。それが音声となって聴衆の耳に届くときには、音声は同じであっても、異なった「意味」となって突き刺さる。決して、私の内面で生まれてきた意味と、聴衆の理解する意味は同じではない。必ず乖離しているに違いないし、また乖離しているから面白いのだ。
私が、「私たちの本尊は『分からん』というものです」と語ったとしても、聴衆の耳には、それが一体何を意味しているのかは、不明である。阿弥陀とは、「無量」という意味であり、それは「無量」という意味ではなく、「量ることができ無い」という意味である。「無量」は人間のこころの中に「名詞」となって定着することはできない。なぜなら、その「名詞」をも解体し、「量ることができ無い」という「動詞」となって「無量」ははたらくからだ。
だから、「この世に私が存在する根本原因は分からない」と教える「動詞」なのだ。なぜ自分は自分として、いま・ここに存在するのか、そのことの意味は分からない。この「分からない」ということが、〈真実〉なのである。
いままで、「分かっていた」つもりで生きてきたけれども、そして、学べば分かるはずだと思って生きてきたけれども、それもこれも、すべては「分からない」という教えを聞くためだったのだ。私は「分からない」ということが根本原因だと「分かった」ということだ。この「分からない」ということが、人生の〈真実〉の姿であったのかと、阿弥陀さんから賜るのだ。そうすると、この「分からない」が自己の柱となる。そして「分かっている」ことがほんの一部のことと逆転する。
人生を長く生きてくると、「分かっている」ことがどんどん増えていき、それで自分の人生といのちを推し量ることになる。パソコンのフォルダ整理に譬えれば、「分かっていること」というフォルダを「ゴミ箱」に移動し、さらに「ゴミ箱」からも削除するようなものだ。削除されれば、パソコン内の情報は「ゼロ」に戻る。まあこれは譬喩だから、正確には表現できない。そもそも情報を蓄積した途端に、フォルダから削除するのが阿弥陀さんだからだ。
人間は、あまりに多くのことを知りすぎた。しかし、その知は「智」であって「慧」ではない。「智」とは、収集・分析・決定という作業智だ。いわば「方法的智(how to)」である。だから、新たに発生した事態にどのように対応し、どんな対応策を出すかというはたらきをする。まあ人生を上手く生き抜くためには、必要な智だ。卑近なことで言えば、目の前の信号が黄色から赤になったら車のブレーキを踏むという単純な智だ。しかし、これが人生の全体を覆い尽くしているのが、現代人ではないか。
この智は、「どのように物事に対処するか」ということには長けている。ただ、「なぜ生きるのか(why)」という問いに対しては無力だ。もっと言えば、「必ず死ぬのに、なぜ生きるのか」という問いには無力だ。智は量的なことに対応する能力は優れているが、質的な問題には無力なのだ。だから、私が話す言葉も、聴衆は「量的」に受け止める。私が何かを話していても、それが一体何を語っているのかは分からない。それは能力が劣っているとか、聞き方が悪いといういう問題ではない。そもそも量ではなく質の話だからだ。
智は、「分からない」ということに納得しない。そもそも聴聞とは「分かりたい」という動機から始まるのだから。「分からなければ」聞いている意味がないと思っている。だから、「分からないということが本質だ」という話を聞くとストレスが溜まる。それがどんどん溜まってくるとイライラしてくる。「意味が分からない」と不満になり、それが刃に変身すれば、「分からない話をしている話し手が悪いのだ」と反旗を翻す。
しかし、それもこれも、すべては阿弥陀さんのなさることだから、それは仕方のないことなのだ。そのイライラも、不満も、反旗も阿弥陀さんのお指図なのだ。だから、誰かが悪いわけでもないし、ひとつも無駄がない。
聴衆は、「分からない」ということが不満なのだが、私は「分からない」ということで満足なのだ。〈真実〉は「分からない」ということだから。明福寺でも、「死ぬ」ということは、ウワサであって、自分は「死なない」のだとお話した。だれも、「死」を体験したことがないのに、「死」を分かったことにしている。その傲慢さを突いた。智では、「分かっている」のだ。生きものであれば、人間を含めて、死なないいのちなどはないと「分かって」いる。ただその智には盲点があって、自分は体験していないということだ。だから、知的には知っていても、体験智としては知らないのだ。ただ、どうも、人間は生物だから、衰えて生命機能が停止していくことくらいは予想できる。しかし、それを「死」という智に落とし込むことだけは避けなければならない。それを「死」と受け止めるということは、「絶望感」に裏打ちされてしまうからだ。
生きている穏やかな世界から、たった一人で死出の旅路に旅立つのだと見えてしまう。自分はああはなりたくないと思っている。そう感じるのは、「生者」の世界は幸せな世界だが、「死者」の世界は、暗く冷たく寂しい世界だと思っているからだ。その知り方は〈真実〉なのだろうかと、阿弥陀さんは囁いて下さる。
そう囁かれると、いままで、自分が分かっていた「死」の観念が揺らいでくる。それで、以前私は『「死観」の解体』という本を出した。親鸞が言いたかったことも、「死観の解体」なのだ。親鸞が「浄土往生」という物語を利用するのも、その意味なのだ。
そう言えば、懇親会で、「浄土って何ですか?」と問われたひとがあった。それで私は、「『いま・ここ』のことです」と即答した。「浄土」とは、いかにも死後の世界のように、死んでから往く世界であるかのように「分かっている」。「浄土」の第一番目の物語的な意味は、「『いま・ここ』ではない」ということだ。「いま・ここ」は娑婆だから。
実は、人間にとっての「いま・ここ」は「過去」のことなのだ。だから、親鸞は、物語的な意味で「未来」を「浄土」として説いた。ややこしい言い方だが、人間が「分かっている」、「いま・ここ」とは人間の智の内容になった、つまりは「過去」のことになってしまったのだ。その「過去」という思いを破るために、「浄土」を「未来」のことでもあるかのように説いた。
しかし、そのように言うと、人間は「未来」をも「分かって」しまうのだ。人間が「分かっている」、「未来」とは、損得勘定で予想された場所のことである。自分が幸せになれそうな場所であれば、「浄土」だと思い、自分が不幸になるよう場所であれば、「地獄」だと思う。人間にとっての「未来」とは、損得勘定が生み出す観念に過ぎない。
そうやって完膚なきまでに、徹底的に批判し、人間に〈真実〉を突き付けてくるのが阿弥陀さんだ。人間が知っている「いま・ここ」も、「人間が予想する未来」も、すべては「過去」のことなのだと教えて、「未来」に眼を見開かせる。「未来」とは、阿弥陀さんのみがご存じのことであって、人間には決して教えられていないことなのだ。それで「浄土」という言葉を「未来」のことのように語るのだ。それが譬え「臨終往生」という意味の「浄土」であっても、それは一寸先の目の前のことなのだから、「いま・ここ」のことだ。死の縁は無量だから、死と隣り合わせているのが私なのだ。それを「未来」という言葉で教える。この「未来」は人間が予想する「未来」ではなく、人間には決して「分からない」と教える阿弥陀さんのはたらきのことだった。それを何とか表現しようとして、曽我量深先生は、「純粋未来」という言葉を作られた。「純粋」というのだから、決して人間には成り立たないということなのだ。
そう言えば、「愛するってどういうことですか?」とも会話の中で問われた。それに対して私は、「それは煩悩です」とも即答した。人間には純粋にひとを愛するということは成り立たないということだ。親鸞は「貪愛瞋憎之雲霧」と「正信偈」で述べている。人間の「愛」とは、「貪愛」であると。つまり「愛」は「貪り」だと。人間は自分を優遇してくれるものには愛情を感じるが、自分の意に沿わないものは嫌悪する。「孫は眼の中に入れても痛くない」と言われるが、それは必ず「私の孫」という「私」が作用しなければ、起こらないことだ。これが「貪愛」だ。「貪愛」とは、エゴイズムなのだ。人間は自分以外を愛することができない哀れな生きものだ。
だからと言って、それだからダメだとか、仕方がないと言っているわけではない。〈真実〉に照らされてみれば、それが間違いのない人間の姿だというだけのことだ。だから、やはり、〈真実〉ということだけが、頼りなのだ。これだけが、宝なのだ。
最後に、面白い現象を付け加えておく。それは、懇親会に残られた方々が、港区三田からは遠くに住んでいるという現象だ。一人は千葉県佐倉市、もう一人は埼玉県所沢市、もう一人のかたも千葉県船橋市だった。さまざま事情で港区三田の明福寺とは遠距離のところから通われているという。近所のひとは寺には来ず、遠距離のひとが寺に集まるという、この不思議な現象は、拙寺(因速寺)でも同じだった。なぜ寺に近いひとは来ず、遠距離のひとが集まるのか。
これはやはり、「距離」というものが、仏縁とは比例しないということの実例なのだろう。蓮如さんも、「とおきはちかき道理、ちかきは遠き道理なり。」(「蓮如上人御一代記聞書」129)と言われている。それで、「ちかきは遠き道理」を説明して、「灯台本くらし」ということがあると、「仏法を、不断、聴聞申す身は、御用をあいみて、いつものここと思い、法義におろそかなり。」と批判している。仏法に慣れ親しんでくると、「鳴子」に乗る雀だとも批判している。「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば なるこにぞのる」(同、175)と。「驚かす甲斐もなくなるわ、村雀さんよ。お前達を追っ払うために鳴子を仕掛けてあるのに、お前達は耳が慣れてしまい、とうとう鳴子に乗って遊んでいるのだから」。仏法を聞き始めたときは、なんと素晴らしい教えだと思って聞いているのだが、そのうち、「また同じ事を言っている」とか「もうその話は聞き飽きた」となっていく。その有り様を蓮如さんは皮肉たっぷりに批判している。
そして、「とおきはちかき道理」には、「遠く候う人は、仏法をききたく、大切にもとむる心あるなり。仏法は、大切にもとむるより、きく者なり。」と言う。こういう言葉が残されているということは、蓮如さんの時代も、いまの明福寺と因速寺のような状況だったのではなかろうか。
まあ、正しく言えば、仏縁と「距離」は比例しないということだ。それであっても、常識は、「近きは近き道理、遠きは遠き道理」と思ってしまうのだ。この常識があるから、遠距離から来られるひとは希有だと感じてしまうのだ。その感じ方そのものが、仏縁の不可思議さを拒否していることの証明である。果たして、自分と阿弥陀さんとの距離はいかほどのものなのか。それぞれが、それぞれの身に聞いて見る以外にない。