感涙の耳

夜中に、夢を見た。ここは北陸のある場所で、あるひとと会っている。そこで、そのひとと話をしていて、私はこんなことを口走っていた。「仏法を聞ける耳、与えてもろうたら、それでええがや。もう他にいうことはない。こんな幸せなことはない。他のことは、みんな娑婆事だ。」と。
 このことが嬉しくて、嬉しくて、涙を流し、嗚咽までしている。ちょうど、トイレにも行きたくなり、小便を済ませてから、洗面所で顔を洗わなければならないほどだった。
 ああそうだったのかも知れないと、思った。それは親鸞聖人が、康元二年の二月九日、寅の時に見た夢の告として和讃を残されている。親鸞聖人が八十五歳のときだ。それが、「弥陀の本願しんずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」だ。おそらく、親鸞聖人も感涙にむせびながら、この和讃をしたためられたのではないかと思った。
 親鸞聖人は、「弥陀の本願しんずべし」だが、私は「仏法を聞ける耳、与えてもろうたら、これほど幸せなことはない。」だ。親鸞聖人は、それを「夢の告げに云く」と記しているが、私は自分が言葉を発して、そのことで感動していた。まあ、それはどちらでもよいことだろう。
 私は自分で発語しながら、嬉しさの感涙にむせんだ。そうだったのだ。仏法を聞けるということは、耳が与えられ、さらに言葉が与えられ、その上、人間という生物として生まれさせられたということだ。これほどの喜びはない。これを「無上の喜び」と言ってもよいだろいう。
 耳が何のために付いているのかと言えば、それは仏法を聞くためだったのだ。耳はいろいろな音を聞く。テレビやラジオの音や、日常会話の声、都会の雑踏、自動車の走る音から、救急車のサイレンまで、こちらが聞こうとしなくても、さまざま音が流れてくる。音は空気の振動で、それが私の鼓膜に届き、鼓膜を揺らす。その揺れは、単なる音だが、その音から、自分にとって意味があると思われる音だけをより分けて聞く。街に聞こえるサイレンが聞こえてくれば、「あっ、あれは救急車か、それとも消防車か、パトカーか」と選別のこころが動く。それで「救急車」であることが分かれば、それで納得しホッとする。人間は、音を音のままにはしておけないのだ。単なる音は、好奇心の対象であり、それがいったい何の音なのかを意味づけなければ、不安なのだ。それで様々な音の中から、自分にとって有益な意味だけを選り分けて暮らしている。それが、娑婆のすべてだと言ってもよいだろう。
 いわば、「音声意味づけ装置」とでも呼べるものを使って、日常を安全に生きているのが人間だ。しかし、仏法の言葉は、日常の「音声意味づけ装置」では役に立たない。表層の意味づけにとっては意味不明に聞こえてしまう。それは、深層の出来事を語る言葉だからだ。表層の意味世界では、「言語」と「意味」とが一致している。「リンゴ」という言語と、「リンゴ」という事物が一致している。具体的な意味世界では、それが一致しているのだが、ちょっと深層になってくると、そうとは限らない。「バカ」という言語は、相手を侮辱する意味を持つが、恋人同士では、愛情表現の意味を持つ場合もある。だから人間関係の場合には、「言語」がどのような「意味の場」にあるかを、つねに探らなければならない。「言語」は単語で成り立つものではなく、つねに「単語」と「単語」の関係、つまり「意味の場」で成り立つのだ。
 「私の娘は男です」という「言語」も、通常の人間関係を想定すれば、矛盾した表現だ。「娘」とは女性であり、男性を指す言葉ではないから。ところがそれが、中年男性たちの会話という「意味の場」であれば、何ら違和感を感じることもない。その男性たちは、自分の娘が生んだ子どもの性別を問題にしてたのだ。だから正しく表現すれば、「私の娘が生んだ子どもの性別は男です」となる。このように再表現すれば、矛盾は感じないだろう。しかし、「意味の場」もさまざまに変化していくのが人間関係だから、人間同士の会話は疲れる。その「言語」が、どの「意味場」で成り立っているのかを、つねに探っていかなければならないからだ。
 それで、特に「聞法」という仏法聴聞の場では疲れるのだ。仏法の言葉は「仏語」なので、表層の、つまり持ち前の「音声意味づけ装置」では役に立たない。『歎異抄』第一条は、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」で始まる。こんな「言語」を見たこともなければ、聞いたこともない。だから、持ち前の「音声意味づけ装置」では解析不能となる。
 仏法の話し手も、「音声意味づけ装置」に向けて言葉を発しているわけではないので、無理もない話しだ。それでは、話し手は何に向かって発語しているのだろうか。そう問うてみると、それは「仏法」そのもの、それを擬人化すれば、「阿弥陀さん」だ。「阿弥陀さん」に向かってモノローグするのが「法話」だ。ただ傍に人間がいて、そのモノローグを聞いているという光景が、「聴聞の場」だ。もちろん、話し手は「阿弥陀さん」に向かって発語するのだが、その傍にいる人間たちが、また大切な発語促進剤でもある。聴衆の無言の熱気によって、展開されていくのが「法話」でもある。
 話を戻そう。日常の「音声意味づけ装置」が解析可能である「言語」とは、事物と意味が一致しているものだけだ。「悲しい」という「言語」と、「悲しい」という「意味」が一致していれば解析できる。ところが『歎異抄』の「歎異」という「言語」は、人間が解析不可能な意味なので、「音声意味づけ装置」は役に立たない。それは表層の「悲しみ」や「歎き」とは異なった意味をもっているのだ。その「言語」は人間でも用いることが可能だが、「意味」は人間が用いることはできな。なぜならば、その「歎き」とは、人間を「相対化」するはたらきを意味しているからだ。言えば、「人間が歎く」のではなく、「人間そのものが歎かれる」のだ。
 「仏法」を聞くということは、この「音声意味づけ装置」の無効性を聞くことだから、人間にとってはとても辛いことなのだ。それであっても、「仏法」を聞くということは、無上の喜びなのだ。それは、この世を超え、人間を超え、人間のあらゆる物事が「相対化」されるからだ。現代人が、もっとも大切にしているものが、「家族・健康・財産」の三つだと言われる。しかし、それらは三つとも、やがて必ず奪われるものである。たとえそれらが奪われるものだとしても、それらが「相対化」されてしまえば、余裕が生まれる。
 「相対化」とは、物事と一体化し癒着していた「思い」を物事から切り離すということだ。「事物」と「意味」は、いつのまにか癒着してしまう。また癒着して一体になっていなければ、この世が生きづらい。それを「相対化」し、剥離していくのが仏法聴聞の醍醐味だ。
 私の言い方だと、「事物」は阿弥陀さんにお返しし、「事物」から剥離された「意味」をのみ生きていく。親鸞の言い方であれば、それは「方便仮土」を生きるということになる。
 もう何も要らない。ただ「仏法を聞くための耳」があるだけで。人間に生まれたことの喜びも、このこと一つに極まる。