何かを考えていても、いつも、何度でも、安田理深先生の、この表現に連れ戻される。ちょっと長いが引用する。
「私自身の経験であるが、初め浄土教というものは好きではなかった。なにか仏教の堕落したもののように見えたからである。学生時代興味を感じたのは浄土教ではなく、むしろ『涅槃経』とか『華厳経』であった。(略)信仰というものを純粋に求めるなら福音書の方がよほどよいと思っていた。しかしそうした、単に信仰といったものではないもうひとつ思想的なものは、『華厳経』や『涅槃経』にあらわれる仏教であると思っていた。しかし、今から考えてみると、阿弥陀の本願というものは、そうした思想的興味を超えて、人間の深みに響くようなものであったのである。(略)どんな愚かな人でも理性を超えて響くものである。もともと、人間存在というものは理知に根拠を置くものではない。もっと深いところに根幹があるものである。理知は神話を否定するものであるにもかかわらず、神話には理知を超えた部分に響くものがあるのである。だからどんな愚かな者もうなずける。そしてまた、どんな思想家もうなずかざるを得ぬものである。(略)理知を超えたものを感ずることができるような理知のところに思想がある。それが本願である。これが『大無量寿経』の法蔵菩薩の物語である。」(『安田理深選集』15巻上1984年文栄堂書店p5)
安田先生が、若かりし頃、感じていた、浄土教への違和感とは何だったのだろうか。この違和感を、私も常に感じていた。そしていまも感じている。そう感じさせているものは何か。安田先生が、「学生時代興味を感じたのは浄土教ではなく、むしろ『涅槃経』とか『華厳経』であった。」とおっしゃることも納得できる。それは教理的正しさへの関心と言ったらよいだろうか。何が正しく何が間違っているのか、より真理に近い表現は何なのだろうかという関心は、よく分かる。
これは、いわゆる「概念」に魅力を感じる感性だ。ところが、浄土教は、「阿弥陀仏の物語」からすべてが説き出されるので、「物語」という眼には見えないバリアがあって、その中へ入っていくことができない。どうしても「概念」を要求する関心では、そのバリアを突破することができない。とてつもなく「物語」に対して憧れているのだが、その中に飛び込むことができない。これはいったい何だったのだろうか。
安田先生が「信仰というものを純粋に求めるなら福音書の方がよほどよいと思っていた。」と言う心情を推していけば、「概念」を欲求する知に目もくれず、ひたすら、真っ直ぐに神(God)へ全身を抛ってしまいたい欲求ではないだろうか。しかし、その「信仰」へも翻身することができない自分がいる。
「知」にも「信」にも没入することができない。そこに立ち現れてきたものが、「阿弥陀仏の物語」である。親鸞が語る言葉の出所は、すべて、この「物語」の内部から紡ぎ出されている。だから、いくら「知」や「信」で迫ろうとしても、決してその扉は開けない。どうしてもバリアがあって、その中へ入っていけないのだ。
そこを親鸞は、そして安田理深はいかにして突入していったのか。
まあそのヒントが、この河合隼雄さんの言葉にありそうだ。
「神話学者のケレニーが『神話は物事を説明するためにあるのではない。物事を基礎づけるためにあるのだ』という言い方をしています。普通考えると、神話によって、いろんな現象を説明したと思われるのですが、そうじゃなくて、基礎づけるのだ。どういうことかというと、「私という存在がここにいる」「どうしているんですか」というと、「いや、今日は講演ですからここにいます」(笑)というのは説明ですね。そんなのじゃなくて、私がここにいるということが絶対的な重みを持って自分自身に「うん、私はここにいるんだ」と腹の底まで思えるというのが神話だというんです。」(『物語と人間の科学』岩波書店1993年7月15日)
まあここで言われている「神話」とは、私の言う「物語」のことであろう。「物語」は物事を説明するためではなく、基礎づけるためにあるとケレニーは言っているそうだ。これはものすごい卓見だと思われる。我々は「物語」を、物事に対する説明くらいにしか思っていない。昔、法蔵菩薩という菩薩がいて、その菩薩が願いを起こし、「この世に苦しみを抱えているものがすべて救われなければ、私は仏にはならない」と誓いを建てられたと。ところがその誓いが叶い、法蔵菩薩は仏と成られた。その名前が阿弥陀仏であると。そうすると苦しんでいる自分のために法蔵菩薩は誓いを発し、私を救おうとはたらいておられるのだと感じる。だから、法蔵菩薩に報恩感謝しなければならないと。こういう「物語」の中に自分を位置づけようとする。しかし、これは「基礎付け」ではなく、「説明」ということになる。「説明」である限り、理屈は分かっても、その「物語」を「生きる」ことはできない。
西洋一神教の『聖書』は、自分がいま、ここにあることを「説明」するためのものだと読むこともできる。「世界はどうなっているのか」、「人間存在はなぜあるのか」。こういうことを「説明」するために書かれているとも受け取れる。もちろん「阿弥陀仏の物語」も、自分のいまのあり方を「説明」するためのものだと受け取ることもできる。しかし、それが「説明」という次元に留まっている限り、その物語を自分が「生きる」ことにはならない。この「説明」と「基礎付け」という言葉の違いは、人間存在のをどう受け取るかというときの、深度の違いであろう。「説明」が知の次元にあるものならば、「基礎付け」とは知では届かない感受性の深さにまで達する。
河合さんが「そんなのじゃなくて、私がここにいるということが絶対的な重みを持って自分自身に『うん、私はここにいるんだ』と腹の底まで思える」というところにまで至らなければ、「基礎付け」にはならないだろう。
釈迦が悟ったと言われる「縁起の法」とは、関係性がすべてという発想だ。つまり、自分という実体はどこにもない、すべてが関係性によって成り立っていると見る見方だ。この考え方は、「無我」という考え方に繋がる。つまり、自分という実体はなく関係性のみなのだから、それは本来、「無我」なのだと。自己という実体はないのだと。これは自己を解体する指向性をもつ。自己という自我意識を、本来は何もないものを、あたかも「自己」として考えているに過ぎないと解体する。これは安田先生が若い頃に魅力を感じた指向性だと思われる。一言で言えば、「否定の力学」である。「般若心経」であれば、「色即是空」という要請だ。色とは物質のことだが、物質はそもそも実体のないものであり、それを「空」という。だから実体のないものに執われてはならない、と。
しかし、人間はそれだけでは満足できないものを持っている。「否定の力学」をくぐらなければならないが、それを再度、統合するための「統合の力学」をも要求する。この「統合の力学」として、「物語」がはたらくのではなかろうか。ケレニーの言う「基礎付け」とは、「統合の力学」のことを言っているようである。
「統合」が起こるところには、必ず「物語」がなければならない。「般若心経」で言う「空即是色」である。「空」というものがあるから、「色」、つまり物質が存在が許されてあるという意味だ。まあ「空というものがある」というのも矛盾した表現だ。「空」とは「もののないこと」を言うのだから。つまり譬えれば「空間」である。そこには「何もない」という「空間」があるから、事物の存在が可能になる。他の事物がそこにあったら、同じ場所に他の事物はあることができない。だから、その事物がそこにあるためには、その事物と同じ質量の「空間」がなければならない。「空」なる「空間」があるから、事物は事物として「許されて存在すること」ができるのだ。
つまり、その「事物」とは「自己」のことだが、自己が自己として成り立つための条件(縁)は無数である。この無数の条件を自己解体の方向性ではなく、「統合の力学」として受け取るために「阿弥陀仏の物語」が要求されたのだろう。
一面で、人間は、「否定の力学」を要求する。正しくは、〈真実〉が我々に要求するのだ。「色即是空」で、人間には決して〈真実〉を見ることはできないと否定される。親鸞の言葉で言えば、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(『教行信証』総序)だ。「無明の闇」とは、「知の闇」である。人知はものごとを正しく見ることができないので「闇」と言われる。「正しく見ることができない」とは、人間の知は、人間が知りうる限りの知り方であって、それは普遍妥当性を持たないということだ。我々は、「言葉」によって、世界を切り分け、人間が利用しやすいように秩序化している。時間も空間も、そして自己というものをも秩序化している。それを「恣意的現実」と言う。人間にとって、魚は「食物」として受け取られるが、〈真実〉から言えば、彼等は「食物」ではなくて、「生物」である。魚が食べ物に見えてしまう眼は、まさに「知の闇」である。
「知の闇」でもって、すべてを推し量り、それがあたかも〈真実〉だと錯覚して生きている。それを「無明」というのだが、それを破るはたらきを、「恵日」と言っている。これは「否定の力学」だ。簡単に言えば、人間は「思い込み」と「固定観念」で生きていると完膚なきまでに否定される。しかし、この否定は否定に留まる限り、ニヒリズムに傾斜する。だから仏教はニヒリズムだと批判される面もある。そのニヒリズムの底から再度、立ち上がってくるものが「統合の力学」としての「物語」である。
親鸞の言葉で言えば、「難思の弘誓は難度海を度する大船」だ。「弘誓」とは阿弥陀如来の究極的な悲愛のことだ。この究極的な悲愛が、渡ることの難しい苦海を渡す大船だと言う。これは「統合の力学」を譬喩的に表現した部分だ。それが「弘誓」と言う言葉に表れている。「弘誓」とは、「あらゆる苦悩のものを救おうという誓い」のことだ。この「誓い」は、阿弥陀如来が阿弥陀如来自身に誓うという形式である。阿弥陀さんは、あらゆる苦悩のものを救わなければ自分は仏には成らないという誓いを建てている。だから、これは阿弥陀さんの「一方的な片思い」だ。「救われるべき人間」に何も要求していないのだ。阿弥陀さんが何も我々に要求しないということは、逆に言えば、阿弥陀さんの救いを得るための手段がすべて奪い去られているということでもある。阿弥陀さんが、「私を信じれば救ってあげるよ」とか「念仏を称えたら救ってあげるよ」とは一言も言っていない。そんな要求は、最初からしていない。ただひたすら阿弥陀さんが、阿弥陀さん自身に向かって誓っているのだ。ここが西洋一神教の神(God)とは性格が異なっている。人間を救うことに於いて「一神」が「一神」としての誕生するのだ。人間の救いを抜きにして、「一神」は存在できないというのが「阿弥陀仏の物語」である。それでも信仰の対象を「一」に縛ることは不可欠のことである。西洋一神教は、もちろん「一神」であり、道元禅師は、「只管打坐」であり、親鸞は「ただ念仏」と、すべてを「唯一性」の精神が貫く。「唯一」という視点に立ったとき、他のものはすべて捨てられる。これは「否定の力学」である。しかし、そこに留まらず、その否定をくぐったとき、「統合の力学」がはたらき始める。捨てたものが、すべて「唯一性」の内部の出来事として統合されてくるのだ。平易に言えば、「あれかこれか」をくぐり、「あれ」を捨てて「これ」を選ぶ。「これ」を選んでしまえば、「これ」の中に「あれもこれも」が包まれるという構造だ。
もう一度、ケレニーの「『物語』」は物事を説明するためではなく、基礎づけるためにある」という言葉に戻ろうと思う。自己が存在として基礎付けられるためには、この世を構成するあらゆる事物が「恣意的現実」だと相対化されなければならない。つまり、自分が見ている世界は、人間の自分にしか見ることのできない「特殊な意味世界」だと相対化される必要がある。そこに「否定の力学」が力を発揮する。その否定の力で根こそぎ更地に戻された、その底から、「統合の力学」が動き出す。いままで「自己」と「世界」を別物のように感じていた世界が壊れて、「自己=世界」という意味世界を賜る。「身土不二」、「身土一如」という意味世界だ。そこまで来て初めて、自己存在が「基礎付け」られる。
「阿弥陀仏の物語」を表現するための用語として、「本願・念仏・信心・往生」などがあるが、すべてこの「基礎付け」を表すためのメタファーなのである。だから、「往生」と言っても、死んで生まれ変わることでもないし、「成仏」と言っても、何か崇高な存在に変身するわけでもない。ただ存在の「基礎付け」を表すために、それらの言葉があるのだ。
安田先生は、「神話には理知を超えた部分に響くものがあるのである。だからどんな愚かな者もうなずける。」とおっしゃる。この言葉を証明しているのが、いわゆる「妙好人」の存在だろう。「妙好人」はインテリゲンチャではない。しかし、人間の根元を揺さぶる言葉を残している。知は枝葉のことであっても、その枝葉が支えられている根っこの問題を常に提起している。「妙好人」の言葉が、多くの人々のこころを打つのは、人間が誰しも抱えている、「必ず死ぬのになぜ生きるのか」という問題に共鳴するからである。この問題はインテリゲンチャだろうが、そうでなかろうが、そんなこととはまったく無関係だ。
私は、「阿弥陀仏の物語」を、「この世は〈私一人〉を教育する阿弥陀さんの学校なり」と受け止めている。いま、ここで呼吸をしている自分自身の存在根拠は何かと問えば、阿弥陀さんからいのちの教育を受けることである。その教育とは、「私には〈真実〉を見ることができない」という教えである。『歎異抄』(第十三条)で言う、「われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざる」である。自分のこころで善悪を判断し、自分のこころで見たままの世界が、〈真実〉の世界だと錯覚している。それが間違いだと知らずにいることの痛ましさを述べている。このことを別の表現では、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」(後序)と述べている。このように「まことあることなき」という表現は、そこに〈真実〉のはたらきを反証しているのである。そこでは、「まこと」と「まことあることなき」が並列に置かれているわけではない。「まことあることなき」と言えるのは、裏に「まこと」によって絶対否定がはたらいていることを証明しているのだ。
ここまで来ると、「否定の力学」が「統合の力学」としてはたらいていることが分かる。これは別々のものではなかった。否定と統合は別々のことを意味してはいない。絶対の否定だからこそ、それが統合の力が必然する。「無明の闇を破する恵日」だからこそ、「難思の弘誓は難度海を度する」のだ。
我々になぜ「阿弥陀仏の物語」が響くのかと言えば、それはもともと我々が「物語的存在」であるからだろう。だから、これは阿弥陀さんが要求するものではない。むしろ、我々の「本来性」が要求する形式なのだろう。我々の本来性に共鳴するために、「阿弥陀仏の物語」が編まれているのではなかろうか。この「物語」が「唯一性」を不可欠のこととするのは、この世を生きているのは「自己一人」だからではないか。宇宙にたった一つの自己だから、「自己存在」は、理性を超えた根っこをもっている。理性にとって、「自己存在」は偶然の出来事として受け取られる。なぜ自分がこの世に誕生したのか。そう問うてみれば、途端に「偶然」が顔を出す。取り敢えず、「両親の性行為」にまで遡れる。さらに生理的に言えば、「精子と卵子」の偶然の結合ということになる。これが「理性」の遡れる限界だ。しかし、「存在」はさらに遡ることができる。なぜ両親が性行為をしようとしたのか、その動機まで遡る。それは二人の煩悩に起因しているが、二人の上に展開した欲望がなぜそのとき、そのような形で起こったのかを問うても、それに対して「理性」は答えることができない。両親を性行為にまで推し進めた衝動は、「理性」を超えているからだ。『歎異抄』で言えば、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」(第十三条)ということになる。「そのように振る舞うべき必然性がやってきたならば、『理性』は、それに抗うことが難しく、思いを超えて、そのように振る舞っているものなのだ」という意味だ。この表現を「理性」が受け取れば、「無責任」に見えてしまう。そして「無責任」という意味で受け取れば、「自己存在」が「偶然」の出来事に還元されてしまう。手に取ろうとしたお茶碗を、落として割ってしまうことがある。そのとき、「お茶碗を割った」と受け取るのが「理性」だ。だから、子どもがお茶碗を割ったとき、「なぜ割ったんだ」と親は怒る。しかし、親自身が割ったときには、「お茶碗が割れた」と自己弁護する。「割った」と受け取るのが「理性」、しかし「割れた」と受け取るのが「身」だ。親は知っているのだ。物事は「理性」でコントロールすることができないことを。まさに「身をもって知っている」のだ。「理性」は、誰が割ったのか、なぜ割ったのかと「割れた原因」を追及しようとする。しかし、原因を追及していくと、あまりに原因が多すぎて追及することができなくなる。そして追及をあきらめる。それを、もとから「身」は知っていたのだ。それが無意味であることを。
お茶碗が割れたという、日常にありふれた、些細なことのなかに、「自己存在」の深淵が顔を覗かせていたのだ。いま、ここで、呼吸をする。肺に新鮮な空気が吸い込まれては、また静かに吐き出されていく。このことの「原因」を遡及すれば、人類誕生、いや生命誕生にまで遡っていく。この無限とでも言えるような、歴史の背景をもって、いまここで、ひと呼吸が生まれる。この感動を親鸞は「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」と「物語」で受け取ったのではないか。「理性」で受け取れば「偶然」であった「自己存在」が、「物語」として統合されてくる。それを「偶然が必然として受け取られる」と言い換えればよいのに、そう言うことに抵抗を感じる自分がいる。もしそのように表現してしまえば、それは「自己存在」の「説明」になってしまうからだ。「説明」になってしまえば、生命力を失う。「説明」以前のところにあるもの。その「自己存在」の深淵とでも呼べるものに魅了され続けている。
「知」にとって、「自己存在」とは永遠の不可思議なのである。