「流れない時間」とは

時間が流れるものであるのならば、「流れない時間」とは、どういうものだろうか。人間にとって、「時間」とは「流れるもの」としてしか感覚できない。物事に熱中していれば「短く」感じ、その場に違和感を感じていれば「長く」感じるということは、日頃よく経験することなので分かりやすい。しかし、その場合も、「客観的な時間」というモノサシがあるから、「短い」とか「長い」と判断することができるのだ。「客観的な時間」と比べて、「もうこんなに時間がたったのか」とか、「まだ時間がたたないなあ」などと感じる。だから、「客観的な時間」がなければ、「短い」とか「長い」とは感じられない。この「客観的な時間」とは、時計やカレンダーで「客観的」に固定された「過去」と「未来」のマトリックス(行列)のことだ。
 このマトリックスを、我々は「神」のように持ち上げ捏造し、そして信仰している。親鸞が、「天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」(『教行信証』化身土巻)と表現したところを突き詰めれば、「客観的時間というマトリックスを拝することを得ざれ」ということになる。
 「天」や「鬼神」などの言葉を聞くと、いかにも「宗教的」な現象であり、そんなものを信じてはいけない、唯一、阿弥陀如来だけを拝むもののだと受け取ってしまう。ところが、この批判は、我々が「常識」としていて、問うたこともない、そして感受性にまで染みついている「客観的時間というマトリックス」を批判しているのだ。
 なぜこれを批判するのかと言えば、それはこの「客観的時間というマトリックス」が阿弥陀さんの誓いを冒涜するものだからだ。親鸞は、この「阿弥陀さんという救済物語」を、たった一行で見事に言い当てる。それが「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(『浄土和讃』)だ。これを表層的に受け取れば、「阿弥陀如来が成仏されてから、現在にいたるまで十劫という時間が過ぎました」となる。この表現のソースは、『仏説無量寿経』の「成仏より已来、おおよそ十劫を歴たまえり(成仏已来、凡歴十劫)だ。もしかしたら親鸞は、表層的にのみ受け取っていたのかも知れない。それは親鸞に聞いてみなければ分からない。ただ、私は、それを深層的に受け取っている。そう受け取ると、この和讃は、「阿弥陀如来が成仏されてから十劫が過ぎ去ったことを、まさに〈いま〉の内容として受け取りました」と訳せる。一応、「弥陀成仏のこのかた」を「客観的時間というマトリックス」を下敷きにしているように表現している。阿弥陀さんが成仏してから、「十劫」という時間が経ちましたというのだから、いまからかなり昔のことなのだろうと受け取れる。しかし、その「十劫」とはいつのことですかと問われると、それに答えることができない。言わば、「永遠なる過去」などという矛盾した表現を取らざるを得ない。人間には量り知ることのできないほどの昔としか言えない。
 しかし、この「いまに十劫をへたまえり」と言われる、〈いま〉を基点に考えると、その意味が開かれてくる。実は、「十劫」を計測している基点が〈いま〉であることが分かる。基点がなければものを量ることはできない。〈いま〉という基点が明確になることにより、「十劫」が成り立つ。つまり、〈いま〉という基点と「十劫」という時間は同時に明らかになるという形になっている。だから、〈いま〉が明確にならなければ、「十劫」も明確にはならない。
 この〈いま〉は、「客観的時間というマトリックス」を完全に相対化した〈いま〉である。「客観的時間というマトリックス」で考える「十劫」は「過去」に当てはめられる。「過去」ということになれば、それはもう済んだという観念に仕分けされる。つまり、〈いま〉とは切り離された「過去」ということになる。ところが、この「いまに十劫をへたまえり」の〈いま〉は、決して過去化されない〈いま〉である。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」と聞くと、阿弥陀さんが十劫の昔に成仏されたものだと、自分とはまったく無関係の出来事に聞こえてしまう。この〈いま〉は、そういう「過去」と切り離された〈いま〉ではなく、永遠に過去化することを拒否する〈いま〉なのだ。
 でも、我々は、「客観的時間というマトリックス」で「時間」を考えているので、阿弥陀さんが成仏したことを「過去」の、つまり「もう済んだ」という観念に押し込めて、冒涜する。阿弥陀さんの救いとは、つねに〈いま〉の出来事である。決して過去化することのない〈いま〉起こっていることだ。それを「もう済んだ」という観念に押し込めることは、阿弥陀さんの救いを過去の遺物として、つまり〈唯一人〉の救いとは無関係のことにしてしまうのだ。
 弥陀成仏とはいつのことなのかと問えば、まさに〈いま〉の出来事である。この〈いま〉の背景として「十劫」が同時に開示される。この〈いま〉とは「十劫」のことなのだ。〈いま〉が決して過去化しないのは、それが阿弥陀さんの救済活動だからだ。もっと言えば、この〈いま〉は「永遠の未来」でもある。だから、「永遠の過去」と「永遠の未来」とが〈いま〉同時に成り立つというのが、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」なのだ。
 この「永遠の過去」と「永遠の未来」という言い方も、「客観的時間というマトリックス」を用いた表現である。正しく言えば、「流れない時間」ということになる。それでは「流れる時間」と「流れない時間」の二つがあるのかと言えば、そういうことではない。我々が生きられるのは、「客観的時間というマトリックス」だけだ。だから、「流れない時間」を生きることもできない。できないのだけれども、「流れない時間」こそが〈ほんとう〉の「時間」だと感じることはできる。そもそも、常に「客観的時間というマトリックス」によって、「弥陀成仏」を「過去」のことに押し込めている自分が破られるときが〈いま〉なのだ。人間には、「過去」しか与えられていないけれども、その「過去」を打ち破るはたらきを「流れない時間」と譬喩的に表現しただけだ。
 浄土教の救済物語は、「浄土に往生する」ということを目的のように語る。この「往生」も「客観的時間というマトリックス」のなかで議論されてきた。「現生往生」なのか、「臨終往生」なのかと。この問題も、「時間論」の吟味を抜きにすれば、決着はつかない。「往生」の問題は、「時間論」の問題だからだ。