今日は、教学館の特別講義で、南直哉さんのお話を聞いた。率直な私の感想は、「頭も切れるし、饒舌で、しかし、自分に嘘を受けなかったひと」だと思った。子どもの頃から、「死」とは何かと問い、「死ぬのに何で生きるのか」と誠実に問われた人生だ。問われたというよりも、問わなければ自分が生きたことにはならないと、切実に受け止めたひとだ。だから、物事を見つめる眼は辛辣だし、自分を見つめる辛辣眼が、そのまま聴衆に跳ね返ってきて、見つめられる我々には、凄みすら感じられた。さすがに永平寺に二十年も居られたひとだと思った。彼一流の言い方では、「居やすかった」かららしい。
彼は、永平寺に入山してくる若者たちに、「本当にあなたに坐禅が必要なのか。本当にあなたにとって仏法が必要なのか」と執拗に問うたという。そんな当たり前の問いを問うていたら、みんなに怖がられ、誰も自分のところには寄りつかなくなったと。それで彼は、永平寺で「ダースベーダー」と呼ばれていたらしい。
しかし、それは曹洞禅だけの問題ではなく、あなたたち淨土真宗の僧侶にも当てはまることでしょうと。それはそうなのだ。なんであなたにとって念仏が必要なのか。なぜ仏法を求めるのか、そういう問いは「当たり前の問い」だ。しかし、当たり前のことが、当たり前ではないということが異常なことなのだ。そういう語り口を聞いていて共感する部分もあった。
私は南さんにあったら是非聞いてみたい思っていることがあったので、それをぶつけてみた。それは例の「道元の払子」のことだ。これは坂東報恩寺の坂東性純先生から伺ったことだが、報恩寺に安置されている親鸞聖人座像は払子を握っている。これは、道元禅師からもらったものなのだと。私は、この話を半信半疑で伺っていた。
ところが、ひょんなことから西有穆山という、総持寺の管長もされたかたの本に、この伝承が書かれていたのだ。それは『正法眼蔵啓迪』という本で、そこには「生死の巻」の解説とともに、この払子は道元禅師が親鸞に渡したものだと書かれていた。これを呼んだとき、坂東先生のおっしゃっておられたことが本当のことなのだと思ったことと、真宗ばかりでなく、曹洞宗にもこの伝承が残されていたことに驚いた。それから親鸞と道元の年表を調べると、最晩年の道元と親鸞が住んでいたことろは、京都市内の割合に近いところだということが判明した。これは益々、この出会いが事実だったことを裏付ける傍証となった。
この話は南さんもご存じで、結局のところ、ニュースソースは私と同じように、この本だった。それで西有さんが何を元にしてこの話をされたのか、さらにそれを遡る資料があるのかと問うた。そうしたところ、そもそもこの『正法眼蔵』は道元が書かれた部分と、そうではない部分が混在しているのだそうだ。だから、はたして、「生死の巻」を道元さんが述べたものかどうかは判定しがたいのだと言われた。だから、この話はあくまで「伝承」の域を出ないと。しかし、自分は親鸞聖人と道元禅師が出会っていたのだと思いますよとは付け加えられた。そもそも住んでいたところが近所でもあり、お互いがお互いを知らないということはないのだろうから、とも言われた。
私は、片や自力の宗旨(坐禅)、片や他力の宗旨(念仏)とお互いの立場は違うけれども、それを超えてお互いに同じものを見ていたのだと思っている。だからと言って、どんちが本当の教えだと争ってはいない。またどちらがどちらかの宗旨に宗旨替えしたということでもない。あくまでお互いの立場を変えることなく、お互いに共感する世界を賛美した。これこそが本当の仏法の味わいだと思う。本物は立場を超えて、お互いの世界を尊重し合うということが起こるものなのだ。
分かれ際、彼は私と何処かであっていると言っていた。私は一対一で会ったことはなかったが、彼は私のことを覚えていた。拙著『なぜ?からはじまる歎異抄』も読んだと、帰り道の送迎車の中で語っていたそうだ。
まあ彼自身は曹洞宗の中で、自分は亜流なのだと言われていたが、私は、彼こそが曹洞宗の教学を背負って立つ屋台骨だと直観した。これは自惚れも甚だしいことだが、中世の京都で道元と親鸞が出会ったように、その出会いをいま南さんと私が再現して入るのかも知れないと思った。
両者は、「只管打坐」であり、「ただ念仏」であるが、そこにある「ただ」が間違いのないことなのだ。「ただ」とは無条件という意味であり、そこに理屈の入り込む余地はない。だから、本当は「ただ」だけが残ればよいのだ、「坐禅」や「念仏」などは不要なことなのだ。まあその「ただ」に気付くために、敢えて、方便として「坐禅」と「念仏」が、辛うじて意味を持つ、という程度のことなのだ。