いままで、「煩悩」とは、自分が起こすものだと思い込んでいた。「私が怒る」、「私が貪る」、「私が羨む」、「私が妬む」などと思っていた。自分が起こすものだから、起きているときが煩悩状態だと思っていた。そうなると、起きていない、つまりニュートラルな状態は煩悩ではないのだと、思い込んでいた。
故、櫟暁先生は、自分とは「煩悩の瞬間湯沸かし器」なのだとおっしゃったそうだ。煩悩の種火がいつも灯っている状態で、縁があれば瞬間的に火が点くものだと。それを「瞬間湯沸かし器」に譬えられた。まあ、現代ではこの機械を目にすることもなくなったので、譬えとして理解してもらうのも難しくなってきた。
それはともかく、以前にも書いたことだが、それは違うのだ。「煩悩」は起こすものではなく、「私そのものが『煩悩』」なのだ。「煩悩」以外では出来上がっていないのだ。それを私は「透明なサングラス」と譬えてみた。つまり、「見る」ということが、煩悩のはたらきなのだ。私たちは、「見る」ことと煩悩は無関係だと思い込んでいる。「見る」とは、カメラのレンズのようにあるものをあるがままに写し取ることだと。まあ厳密に言えば、「見る」という現象は、「眼球」という器官が写し取るためには必要だ。しかし、それはインタフェースであって、「眼球」があるからといって、「見る」ことが成り立つわけではない。二十代の頃、まだ酒の飲み方がよく分からず、「暴飲」してしまい、目は開いているのに、走ってくる車のヘッドライトがギラギラときらめくだけで、周りが見えなくなったことを経験した。アルコールが脳(大脳新皮質)にまで強烈に作用すると、「見る」という機能もうまくはたらかないのだ。だから、ものを「見る」ためには、大脳が正常にはたらいていなければならない。
そうなると、ものを「見る」ための器官は眼球であっても、「見る」ことが成り立つためには大脳が必要になってくる。「見る」のは眼球であっても、「見えている」と感じるのは大脳だ。ただ、この眼球と大脳との間には、大きな溝がある。つまり、大脳とは「煩悩」が支配する場所のことだから、眼球には何の責任もないことなのだ。
いかにも「あるがまま」に景色を見ているつもりだったが、透明に見えている景色そのものが、「煩悩」が、そのように「見せている景色」だったとは。どうも我々は、「煩悩」という言葉をマイナスイメージで受け止める癖がある。「煩悩」は汚れたもので、疚しいものという先入観がある。できれば無くした方がよいとさえ思っている。でも、「煩悩」は私が私として成立するためには不可欠な、大切なはたらきだった。それで私は「煩悩拝跪」とすら言っている。「煩悩」とは跪き拝むべき尊い精神作用であると。
『成唯識論』では、末那識に相応する煩悩を、「四根本煩悩」と呼んでいる。「我癡、我見、我慢、我愛」である。四つにすべて「我」という文字が着いている。この「我」はエゴイズムの「我」ではない。もはや「我」と意識することすら出来ないような「我」である。だから、この「我」は否定的な意味でも、肯定的な意味でもない。カメラで譬えれば、カメラのレンズのことである。これを通さなければ、すべての対象を映すことのできないようなはたらきのことだ。これなしには、世界を統一的に「見る」ということが成り立たない。
「我」というレンズを通して現れるのが、「癡・見・慢・愛」の四つだ。これらはすべて「知的」な作用であって、どこにも実体がない。末那識は、表層の意識では捉えることのできない深層意識なのだが、それがこのように言葉によって表現されるようになったのは、意識化のお蔭だ。それでも、「見・慢・愛」はまだ意識化しやすい。間違った見解や、慢心や愛情などは、分かりやすい。なぜ分かりやすいのかといえば、この三つの煩悩でしくじったり恥を掻いたりしたからだ。身に覚えのある煩悩は感じ取り易い。しかし、それらを統合しているのが「癡」であり、これを自覚化することは難しい。『成唯識論』も「諸ノ煩悩ノ生ズルハ癡ニ由ルガ故ニ」と言っている。我々が、薄々であっても感じ取れる煩悩は、表層のものであり、それらを深層から生み出しているものが「癡」であると。
そして、「我癡」を次のように定義している。「我癡トハ謂ク無明ナリ。我ノ相ニ愚ニシテ無我ノ理ニ迷ウガ故ニ我癡ト名ヅク」と。この「無明」がよく分からない概念だが、それを説明するように「我見」の説明がある。「我見トハ謂ク我執ナリ。我ニ非ザル法ニ於テ妄計シテ我ト為スガ故ニ我見ト名ヅク」と。つまり、「無明」とは、「自分という実体はないのに、自分だと思う「思い」を自分だと錯覚すること」なのだ。間違いなく、自分を反省してみれば、自分は「自分」だと思っている。この意識がなければ、この世を生きることができない。まさに無意識というか、無自覚になっているが、この世を生きるというときの統一点を「我」と受け取っている。
しかし、「自分という実体はないのに、自分だと思う「思い」を自分だと錯覚すること」という見方を「世界」に当てはめてみれば、「世界という実体はないのに、世界だと思う「思い」を世界だと錯覚すること」となる。実は「自分」という思いも、「世界」という思いも、同じ構造をしているのだ。それで「成唯識論』は、「識体転ジテ二分ニ似る」と言う。「世界」も「自分」も、共に、「実体はないのに、実体があるように思わせる識体の作用なのだ」と。
このように考えてくると、もはや、我々が「見たり」「感じたり」すること全体に、確かなものはひとつもなく、すべてが「識体」の内部のことに還元されてくる。ここに「確かなものはひとつもなく」と書いたが、このフレーズをどういう感情で読むかだ。もし儚さや、もの悲しさという感情で読んでしまえば、『成唯識論』が言いたいこととはズレてしまうだろう。「確かなものはひとつもなく」というフレーズが、「そうか、それでよかったのか」とホッとするところに落ち着かなければならない。残念無念という感情と、完全に「根切り」されていなければ、ホッとする感情は生まれない。
この「ホッとする感情」とは、『歎異抄』(第十六条)でいう、「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」の「ただほれぼれと」に共鳴する。この「ただほれぼれと」とは、「確かなものはひとつもなく」て、心底よかったと安堵する感情だ。これが、〈真実〉と完全に「根切り」された世界である。弥陀の利剣は、見事に「根切り」される。だから切られた者には、少しの痛みも与えない。切られた後に残るものは、「ただほれぼれと」という陶酔のみだ。