死の縁無量 明日は我が身の 月のしずかさ

 昨夜は、「中秋の名月」だった。それで、夜空を見上げたが、曇が掛かっていてまん丸の月は見えなかった。一昨日のほうが、まん丸だった。
 それはともかく、知人の、またその知り合いの女性だが、検診で肺がんが見つかり、手術をすることになったという。術後は、すぐに退院して、また顔を見せるからと話していた矢先、女性の息子さんから、母が亡くなったと知らせを受けたそうだ。この間、お会いしたばかりなのに、何でこんなことになってしまったのだろうと、唖然とされ、驚嘆され悲嘆されていた。息子さんは、医療過誤があったのではないかと疑ったが、どうせ病院を相手に争っても、まず勝ち目はないので断念されたという。
 驚きが、怒りとなり、憤懣が頭の中をグルグルと渦を巻く。そのような、何とも言えない思いを抱えて、私にメールをよこした。私も、どのように返信してよいか戸惑っていた。そんな中で生まれた歌が、これだった。
「死の縁無量 明日は我が身の 月のしずかさ」
 まさに「死の縁」は「無量」、人間の予定や都合とは、まったく無関係の出来事だ。その女性に対する思い、彼女との語らいや仕草の思い出、それらがこころの中を占めてしまう。しかし、いま、何をどのように思おうとも、「事実」は何も変わらない。「死の縁」は、人間の思いを超えている。
 そうやって女性のことを思っていたら、そう思っている自分自身はどうなんだと、阿弥陀さんから問われた。そう問われてみれば、まさに「明日は我が身」だ。「死」を他人事としてしか考えられない自分に目が行った。先日も、高校野球を見ているとき、まさにそのとき、心筋梗塞で亡くなられた住職のことを思った。人間は、次の瞬間には「死」ぬ生きものなのだと思い知らされた。まあ、いくら他人事ではないと言いつつ、それでも他人事としてしか「死」は考えられないのが、また我々、人類だ。
 まさに、そう考えると孤絶であり、思いが閉ざされていく。そういう思いと同伴するようにして、あの月のしずかさが浮かんできた。月は孤独な星だが、そこには僻みも怨みもない。凛とした威厳ささえ湛えている。あの尊厳を拝見したら、人間の「思い」など、どこかへ吹き飛ばされてしまった。
 老子の「無為にして化す」が浮かんできた。これは政治的な文脈の言葉だが、それを私は〈真・宗〉に意味転換して受け止めている。まず老子本来の意味は、こういうことだ。「『我無為にして民自ら化す』ことさら手段を用いなくても、自然のままにまかせておけば人民は自然に感化される。聖人の理想的な政治のあり方をいう。」(『広辞苑』第七版)
 私は、「無為」を阿弥陀さんの誓願と受け止めている。阿弥陀さんは、あらゆる苦悩するものが救われなければ、私は仏には成らないと誓う。阿弥陀さんは、苦悩するものに向かって、「私を受け入れなさい」とか、「信じなさい」とは、一言も要求しない。どこまでも阿弥陀さんは、阿弥陀さん自身に誓っているのだ。これが「無為」の本質だ。
 苦しんでいるものと一心同体にまでなろうとして、身を沈めて誓っている。それも、苦しんでいるものに、まったく悟られないようにして。月は眺めるものを癒やそうとして赤々と輝いているわけではない。月はただただ太陽のひかりに照らされているだけだ。この「無為」なるひかりを受ける人間のこころに何かが生まれる。一言で言えば、それは「感動」だが、「感動」という言葉で言ってしまうと薄っぺらくなる。
 この「無為」が「化す」とは、「教え導く」という意味だ。「無為」であれば、我々とは関係性を持ち得ないはずだ。ところが、「無為」なるがゆえに「化す」という不思議なことが起こる。これが親鸞の言う、「仏法不思議」というものだろう。
 それは、「化」された人間にだけ起こる現象だから、周りから見ても、それは感じられない。そう言えば、先日、こんな話を聞いた。ある女性が突然死された。その女性は、何十年も連れ添った連れ合いと長男と一緒に暮らしていた。葬儀が終わり遺品を整理しているとき、タンスの中から通帳が出てきたそうだ。そこには数千万が貯金されていた。生前、お連れ合いも長男も、そのことを一切知らなかったそうだ。驚いたことに、その貯金の受取人を見たら、長男の名義だったという。お母さんは、コツコツと息子のためだけにお金を、数千万円も貯めていたのだ。そのことを知ったときの長男のこころはどのようなものだっただろうか。
 やはり、「済まない、お母さん、有り難う」という感情が湧いてきたのではなかろうか。生前、お母さんは、「お前のためにお金を貯めているからね」と一言も言わなかった。もし、そう言ってしまえば、親の愛情を子どもに押しつけ、子どもに重荷を背負わせることになる。それを危惧して、お母さんは、敢えてそのことを口にしなかったのだろう。
 これが「無為にして化す」ということが、具体的に、人間の上に起こる実例ではなかろうか。「無為」だからこそ、「化」された人間に、「申し訳なさと感謝」の感情が起こる。阿弥陀さんが、人間に何も要求しないのは、愛を押しつけて子どもに重荷を背負わせないように配慮した母親の愛情と共鳴する。愛が究極の形をとるときは、相手に勘づかれないということだ。それだからこそ、愛を受け取った人間には、無上の「申し訳なさと感謝」の感情が溢れてくるのだ。