自分を超えた自分に遇う

 人生には、自分を超えた「自分」に遇うということが起こるものだ。昨日まで、さんざん練習しても乗れなかくて悔しい思いをしていた自転車に、翌日、ふとしたタイミングで乗れるようになる。どうして乗れるようになったのかは、自分でも分からないが、確かに乗れている。こんなとき、「自分を超えた自分」に出会うのだろう。
 禅宗では、酒を「般若湯」と呼んでいる。般若とはパンニャというインド語の語呂合わせて、「智慧」という意味だ。「湯」は、「お湯」のことで、酒を熱燗にすれば「智慧のお湯」となる。まあ、「不飲酒戒」という戒律があるので、表だって「酒」と呼ぶことが憚られるので、隠語として「般若湯」と呼んでいる。しかし、なぜ酒を「般若」と結びつけたのか。これも考えると、なかなか妙を得ている。酒を飲むと思わぬ発想や気付きを得ることができる。この酒の効用からヒントを得て、「般若湯」と命名したのではなかろうか。実によい命名だと感心させられる。
 確かに、酒はいろいろな気付きを与えてくれる。しかし、飲む量が増えてくると、それも行きすぎてしまい、妄念妄想へと変質していく。酒飲みならば、誰しも経験することだが、思わぬことを言ってしまい、顰蹙を買ったり、場をしらけさせたり、あるいは、誰かを傷つけるような発言をしたりということが起こる。アルコールは、普段、自制している大脳新皮質を麻痺させるので、自制心が緩み、大胆な発現や行動をしてしまう。それで取り返しの付かないことになった、などという経験は誰しもあるのではなかろうか。そのときの自分を、自分ではないと言わせないものがある。自分でも恥ずかしくて否定したい自分であっても、それも自分だと引き受けることになる。あのときの自分は、やはり、「自分を超えた自分」だったのではなかろうか。
 自分とは、常に「自分を超えた自分」を内に抱えている存在ではなかろうか。だから、これからも、時々刻々、「自分を超えた自分」が現れる可能性を秘めている。そうやって考えを詰めていくと、自分が自分だと思っている自分とは、「自分を超えた自分」なのではないか。昨日の自分を思い出し、明日の自分を想像しているのが、それは「思いの中の自分」だ。そんなものは、実体としてどこにも存在しない。「思いの中」にしか存在しない。〈ほんとう〉の自分は、思いを超えている。つまり、「自分を超えた自分」が、時々刻々、展開しているのみだ。
 「思う」ということの本質は、「思わされて思う」のだから、「思ってしまった」ときには、「思いの自分」しか見出せない。「自分を超えた自分」は、もはやそこにはない。これは面白いことになってきたぞ。どのような「自分を超えた自分」が、これから現れるのか。未知未開の世界へ探検するようにワクワクしてきた。
 「古希を迎え、もう先のない人生を生きている」という「思い」も、それは「思いの自分」だ。〈ほんとう〉は「自分を超えた自分」が、そのときには現れる。だから、いまからそんなことを「思う」必要もない。いやいや、どんなことを「思って」もよいのだ。そもそも、「思わされて思う」のだから。「やがて死ぬのだろう」という「思い」も、「思いの中」にしか住めないのだ。住みたいのならば住まわせてやればよいのだ。所詮、それは「思いの中」のことなのだから。