透明なサングラス

 仏法を聞くことから与えられる喜びとは、どのようなものなのかと問われた。確かに、仏法から得られる喜びはある。あるのだが、それを言葉で表現するのはなかなか難しい。親鸞も、曇鸞の『浄土論註』を引用して、「三楽」を述べている。「楽に三種あり。一つには外楽、謂わく五識所生の楽なり。二つには内楽、謂わく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、謂わく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起これり。」(聖典p295)と。
 「楽」には、三つの位相があり、まず「外楽」とは、「五識所生の楽」と言う。「五識」とは、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」に感じられる喜びだから、分かりやすい。美味しいものを食べたときや、よい匂いを嗅いだりすることは喜ばしいに違いない。次の「内楽」とは、「意識所生の楽」だと言っている。これも「外楽」から得られた快感を意識で統合した喜びだから、まだ分かりやすい。ドラマを観て感動したり、あるいは詩や文学を読んたときに観じる感動が、これに当たるだろう。しかし、三つ目の「法楽楽」が難しい。これは「智慧所生の楽」であり、「仏の功徳を愛する」ことから起こる喜びだと言う。親鸞は、このことを一番に言いたいがために、前の二つを対照的に出しているに過ぎない。
 さて、この、親鸞が言おうとしている「法楽楽」を、〈私一人〉に問うてみた。何が喜びで仏法などと関わっているのだろうかと。仏法聴聞の醍醐味とはどこにあるのかと。しかし、そう問うてみても、即座に「これが喜びです」と答えることができない。親鸞が、「外楽」「内楽」「法楽楽」と分類したのは、意識の表層から深層への階梯だろうから、「法楽楽」とは、深層意識の領域で起こっていること、という意味だろう。だから、なかなか、それを表層意識にある言語で表現することが難しいのだ。
 そこを押して、敢えて言葉で表現すれば、「透明なサングラス」の発見だろうか。まあこれも矛盾した譬喩である。透明であれば、メガネであってサングラスではないのだから。しかし、私のイメージとしては、透明に見えていると思っていたけれども、それは透明だと錯覚していただけで、本当は「人間の思い」というサングラクを掛けていたと気付かされたということだ。だから、「人間の思い」は、〈真実〉を見てはいないと思い知らされた。
 親鸞の言葉で言えば、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(聖典p508)である。一応、この和讃は親鸞が八十五歳頃に書かれたものだと言われる。この和讃をどうお前は受け取るのかと追及される。そうやって追い詰められてみると、「真実の心」や「清浄の心」など自分には一つもないと教えられる。この「教えられる」が曲者である。誰から教えられるのか。そこに阿弥陀さんがいるかどうかが、究極の問題だ。
 「教えられる」と言ってはみたものの、自分で自己内省することによって知ることも、「教えられる」と表明することができるからだ。そこに阿弥陀さんがいるかということは、自己言及性によっては決して知り得ないという覚知である。
 「真実の心はありがたし」ということは、いわゆる「信仰」の問題ではない。あなたが目にしている光景、あなたが感じている時間、あなたが体験している主体そのものが、あなたが見ているように、あなたが感じているようには無いという覚知である。たとえば、「見る」ということも、あなたに見えているままの光景があるわけではない。人間が物事を「見る」ためには、眼球という器官が必要だ。ただ器官のみでは、光景は見えない。その光景を視神経が伝達し、それを統合する「意識」が必要だ。現代科学では、それを「脳」に還元して考えるだろう。しかし、仏教は、意識の深層には、「末那識」があり、更にその下には「阿頼耶識」があると想定した。「末那識」とは自我意識のことで、この意識なくして、「見る」という意識も成り立たないと考える。つまり、あなたが見ている光景は、眼球が見たとおりにあるのではなく、「自我意識」が切り取った偏った光景ということだ。これが「真実の心はありがたし」である。
 つまり、この「末那識」なしに、私は世界と関係を持つことができないということだ。それで、いつも思い出すのが、まど・みちおさんの「ことり」という詩だ。
そらの
しずく?

うたの
つぼみ?

目でなら
さわっても いい?
 私は、空を飛んでいる鳥を見ても、「鳥が飛んでいる」としか思わなかった。しかし、まどさんは、飛んでいる鳥を見るとき、「目で鳥を触っている」と思っていたのだろう。だから「目でなら さわっても いい?」という詩が生まれたのだ。見るということは、目で触ることであると。目で触るということは、目を手の譬喩にしているのだ。鳥を手で捕まえて、自分の欲しいままの餌食にするという、「貪欲」の有様を見事に歌っている。
 我々は、鳥ばかりでなく、ありとあらゆるものを見ることができるのは、「貪欲」という煩悩があるからなのだ。そこに「貪欲」の罪というものをまどさんは暗に表現している。ありとあらゆるものを自分を満足させるために我がものとし、それを利用する。仏教で、必ずといってよいほどに説かれる、「生老病死」も「貪欲」の餌食にする。「生老病死」というものがあたかも、あるがままにあるように錯覚する。ただ錯覚がやってくる、その直前に、「お前が感じている生老病死は、貪欲の餌食にされた生老病死だぞ。決して〈真実〉の生老病死ではないぞ!」と叫ぶものがある。それが親鸞の言う「智慧所生」という意味だろう。そう叫ぶものこそ「智慧」なのだ。「智慧」とは、「末那識」の更に深層にある「阿頼耶識」だ。それを譬喩的に「阿弥陀さん」と呼んでいるだけのことだ。
 深層意識という言葉も固定観念を持たれている。「深層」というのだから、自己の身体の奥に深く眠っている意識をイメージしてしまう。このイメージは、「内在」というイメージと結びつきやすい。しかし、そのイメージばかりでなく、私は「空気」と譬喩的に言ったりしている。親鸞も、「信心」という言葉に「内在」というイメージが付着しやすいので、「信心海」と言っている。信心が海ということは、全世界、あるいは全宇宙に遍満しているものというイメージだ。信とは海の如きものだ。だから、誰かが所有するものでもない。言わば、我々が呼吸し、動き回れる場所そのものだ。
 こうなると、人間がイメージすることのできるすべてのものは、「貪欲」の限界以上のものではないことを思い知らされる。だから、そこには、〈真実〉は無いぞと、そのイメージを綺麗さっぱり抉り出し、「方便化」される。
 こうやって抉り出され「方便化」されることが、「法楽楽」という喜びなのだ。それを私はイメージの「解体」とも言うが、なぜ「解体」が必要かと言えば、それは「解体」されなければ、「生老病死」から逃れられないからである。この「四苦」が住める世界は、「末那識」の世界のみだ。一般的に、「四苦」は生理的な出来事だと思われているが、本当は、「末那識内的出来事」だ。「四苦」は、「末那識」が感受した世界として、抉り出され、「方便化」されれば、自分には「真実の心はありがたし」が喜びになる。自分は〈真実〉を見ることはできないのだ。「末那識」以上のことは感受できないのだから、徹底的に〈真実〉は見ることができない。そこまで来て初めて、〈真実〉を見たいとか、見られるのではないかという無理な強迫から自由に解き放たれる。この解放が「法楽楽」ではなかろうか。
 『歎異抄』第四条でいうところの「聖道の慈悲」とは、「貪欲」(貪愛)のことだ。エゴイズムの愛を「貪愛」という。これがはたらかないと人間には結婚とか、子どもを育てたりする力は湧かない。だから大切なはたらきだ。それであっても、これは「始終なし」と言われるように、限界がある。子どもを失って悲しむのは、「貪愛」の苦しみだ。ただ、それは「貪愛」が悲鳴を上げているに過ぎない。「貪愛」は、私の一部分であって、全体ではない。言わば、「阿頼耶識」が私そのものなのだ。「阿頼耶識」の一部分に過ぎない「末那識」が悲鳴を上げているのだと分かれば、これも自業自得なのかと受け取れる。
 「火の車 作る大工はなけれども 己が作りて 己が乗るなり」という狂歌があるが、この「火の車」を作っている張本人が「末那識」なのだ。まあ、「末那識」が正常にはたらいているから、「火の車」を作ることもできる。だから、「末那識」の息の根を止める必要もないし、それはできなことだ。ただ、それは「阿頼耶識」の中の一部分だと知っていなければならない。つまり、私の一部分であって全体を覆うものではない。「末那識」は決して、「真実の心」ではないからだ。このように、「末那識」と「阿頼耶識」の棲み分けを知ることが、「智慧所生」という意味なのだろう。
 「阿頼耶識」とは、私全体であり、この世全体であるような広大な意味界だ。「末那識」の私にはとうてい全体を知りうることなどできない。私が感受できる「阿頼耶識」は、辛うじて、「いま・ここ・私」という言葉を接点にしている。