〈真・宗〉で言われている「罪」とは、何ですか?と問われたので、こう答えた。「自分には身に覚えのない罪です」と。
「罪」という言葉は、それそこ人間界で通用している言葉だから、すでに手垢が付いている。手垢とは、固定観念のことだ。だから、「罪」という言葉を見れば、ひとはマイナスイメージを連想してしまう。ドストエフスキーにも「罪と罰」という有名な小説もあり、暗澹とした雰囲気を引きずってしまう。
しかし、〈真・宗〉で言うところの「罪」は、人間のいかなる固定観念にも該当しないので、答えることが難しい。
親鸞は「仏智疑惑のつみふかし この心おもいしるならば くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし」(「疑惑和讃」)と述べている。何はさておいても、この世の罪にまさる罪が「仏智疑惑」だと言う。これは曇鸞大師の指摘から気づいたことかも知れない。「五逆」という刑法的罪以上に「謗法罪」が重たいと曇鸞は語る。「刑法的罪」が起こるのは、それを引き起こしてくる罪があり、それが「謗法罪」だと。「謗法罪」とは、一言で言えば「神も仏もあるものか」という考え方だ。この考え方が生まれてくる背景には、この世へ誕生したことへの恨みがある。それを涅槃経の言葉を借りて言えば「未生怨」である。「この世に生まれる前から、つまり未だ生まれざる時から」とでも譬えられそうな怨みである。母胎の胎内にいたときは、安心安全快適だった。しかし、この世へ産み落とされた途端に、自分で呼吸し、動き、食べ、排泄しなければならなくなった。やがてこの誕生が「死の誕生」でもあったのだと教えられ、さらに生は圧迫される。
つまり、誕生とは、死ぬいのちを手に入れることであり、それこそ自分が望んだことのない絶望の贈与だ。
このことにご本人は気づいてはいないかもしれないけれども、無意識のところでは勘づいているのだ。だから、この強制的な絶望、つまり、怨みを何とか晴らしたいという思いが、人間の根元を鷲づかみにしている。この怨みが、この世のあらゆる犯罪の起爆剤になっているのだ。だから、曇鸞は、「五逆」よりも「謗法」が重いという。「重い」というのは、「五逆」が生まれてくる根元の罪が「謗法」だから、「謗法」のほうが重たいと言っている。だから、「重い」ということは、「軽重」の「重い」ではなく、「根源的」という意味の「重い」なのだ。
それで、親鸞の和讃に戻ると、「仏智うたがう罪ふかし、この心おもいしるならば」と続くのだが、恩師・廣瀬杲先生は、生前、「この心」に注目されて、「この罪おもいしるならば」と親鸞は書いていないとおっしゃっていたことを思い出す。つまり、「仏智うたがう罪」などは凡夫の自分が「おもいしる」ことなどできないのだと。「おもいしる」ことができるのは、「罪」ではなく「この心」なのだと。「仏智うたがう罪」などは、仏智と同質もものが疑うことのできる罪であって、自分はそんなことはできないと。自分が思い知れるのは、「この心」であり、それは、どこまでも人間が受け止めた限りでの「罪」でしかないのだと。
歎異抄の言葉で言えば、「われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて」(第13条)ということだ。どんな心が起こってきても、それを自分が判断して善いと思ったり、悪いと思ったりしていると。どれほどのことを思っても、人間という生きものの自己判断の内部のでしかないのだと教えられる。
未生怨を抱えている自分だが、それが罪の発生源だと気がついても、相変わらず、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」(第13条)で、「罪」を作ってしまう。人間というヤツは、こころの根っこまで腐りきっている存在だと知ってはいても、そのことを、よしとして許してしまう。それは「自己保身の罪」だ。あるいは、反対に、そんな自分ではダメなのだと、どこまでも自罰的に自己を責め続ければ、「自虐の罪」となる。どちらに転んでも、「この心(慚愧)」どまりであって、「仏智うたがう罪」には見合わない。
だから、「仏智うたがう罪ふかし」と言われても、ポカンとしてしまう。ポカンとしてしまうほどに、「身に覚えのない罪」なのだが、これが「罪」だと思えたなら救いなのだろう。「仏智うたがう罪」として、私に呼びかけ、「身に覚えのない罪」を問題提起としてぶち上げ、そこに阿弥陀さん自身の謝罪を仕込んであるのだ。未生怨のものに対してのみ、阿弥陀さんは謝罪をする。コッソリと謝罪するので、うっかりしていると見逃してしまう。
阿弥陀さんの謝罪は、一方的なものだから、こっちには無関係だ。こっちと触れ合う接点がない。
だから、「身に覚えのない罪」に間違いない。私には痛くも痒くもないのだから。「身に覚えのない罪」なんだが、いや、「身に覚えのない罪」だからこそ、阿弥陀さんに対して、申し訳ないと感じさせられる。そこに、「お前に苦労を掛けて済まない」という声が聞こえてしまう。
やはり、「身に覚えのない罪」が。「身に覚えのない罪」のままで、「身に覚えのある罪」に変化させることが救いなのだ。「身に覚えのない罪」に弥陀の「御約束(歎異抄・第11条)」を感じさせ、「身に覚えのある罪」へと変化させる。たとえそうであったとしても、所詮、我々は「われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらず」(歎異抄・後序)だ。そのことを親鸞は、「悲しきかな」(『教行信証』信巻)と嘆いている。この「悲しきかな」は人間の歎きであるような顔をしておりながら、実は「弥陀の悲しみ」の代弁だ。
「身に覚えのない罪」なのだから、人間が嘆くことなど出来ない。それは「弥陀の悲しみ」なのだから。阿弥陀さんが、すべてのいのちを、この世に生み出す根元であるならば、それは「弥陀の悲しみ」に違いない。