いまから思えば、四十歳のころだろうか、寺での法話を終え自室に戻り、テレビゲームをしていたことがあった。その時は、お話もスムーズに進み、聴衆も感動し、とても充実した法座だった。それでテレビゲームをしていたのだが、ゲームをしながら、とても嫌な感じがやってきた。その嫌な感じというのは、法話が上手くいったときに起こってくる感情だ。
それはある種の「法悦」ではあるのだが、それがやがて「自己満足」ではないかという思いと融合してくる。さらに、「法悦」に浸っている時間と、いまテレビゲームをしている時間とが分離していることへの違和感であった。それではらわたが抉られるような感情に落ち込んだのだ。内蔵がうねるように抉られるのだ。
もっと言えば、法座の時間が終わり、「やれやれ」という気分になったのだろう。しかし、この「やれやれ」という感情がやって来たとき、それを許さない感情が、腹の底から起こってきたのだ。それでゲームをする気がしなくなり、やめてしまった。このはらわたが抉られる感情は、何だったのだろう。
それは恐らく、阿弥陀さんの揺さぶりだろうと思われる。法話が上手く進み、聴衆がそれなりに感動し、「完璧な法座」が生まれたことは尊いことなんだ。もうこれ以上言うことはないじゃないかと思いたくなるほどのことだ。しかし、それを許さない阿弥陀さんがおられた。
恐らく、その「完璧な法座」を自分の手柄にしている意識への鉄槌だ。そこにほんの少しでも自惚れがあったら、それを許さない阿弥陀さんが動き出す。それは、「もう済んだこと」にしていることへのお叱りだ。阿弥陀さんには、「もう済んだ」ということはない。常に〈いま〉の出来事だ。それを「もう済んだこと」にし、いまテレビゲームに浸っていることで、「やれやれ」と思っている感情全体を炙り出した。
この鉄槌がやってきたら、もはや「法悦」どことではない。冷や汗が流れてくる。自分にとっては、有り難くないことなのだが、いまから思えば、それは阿弥陀さんの懇切丁寧な御諭しだった。阿弥陀さんは超越されているのだから、本来、自分に接する縁はない。言わば「絶縁」されているのだ。しかし、いつまでも超越の座におられたのでは、私に触れることはないので、敢えて超越の座から降りられ、こういう形で、具体的に私に関わって下さる。
そんなのは、お前一人のこころのなかの出来事であって、「阿弥陀さん」云々ということとは無関係じゃないかと批判されれば、まさにその通りなのだ。私一人の気の迷いなのかも知れない。ただ、このはらわたが抉りだされるという感情だけは、間違いの無い、自分の身に起こった出来事として刻まれている。
そのときは、阿弥陀さんからの鉄槌として、自分にとっては驚きとマイナス感情で受け止められていた。でも、そのことがあってからは、法話終了後に、一喜一憂する気分はなくなった。一喜一憂する気分から「救われた」と言えばよいだろうか。おそらく、いままでは「自分が話している」と思っていたのだ。だから、よい法話ができたときは自惚れが起こり、悪い法話のときは自分を責めた。この「自分が話している」という受け止めが、そもそも間違っていたのだ。だから、よい法話であっても、よくない法話であっても、それはすべて阿弥陀さんにお返ししていくものなのだ。善い悪いの判断は阿弥陀さんに、すべてお譲りし、こっちは空っぽにならなければならない。
そして私が抱えていたお荷物を、洗いざらい阿弥陀さんにお返ししていくのみだ。どんな法話が生まれようと、またどんな言葉が生まれようと、さらにどんなことを思おうと、それは「思わされて私が思っている」だけのことなのだ。私を動かし語らせ、思わせている当体は、「私」ではなかったのだ。