「難しさ」とは

富山の「浜の会」という自主聞法会に行ってきた。ほんの数人の集まりではあったが、とても尊い思いにさせられた。彼等は、仏法を学びたいという動機だけで集っていた。小生のお話が終わって、各自が自分の思っていることを語る場面で、一人のおばちゃんが、「難しい」とつぶやいた。
 なんでこんな難しいことを学ばなければならないのかという愚癡だ。私は、難しくて嫌になるのであれば、学ばなくてもよいのではないかと思った。それでも、「難しい、難しい」とは言いながら、またこの会に通ってくるのだから不思議なものだ。人間は「知的」に理解するだけでは満足しない、「深い生きもの」だということを証明している。
 なんで仏法が難しいのかと言えば、それは「人間が難しい」からなのだ。仏法は、「ご覧のとおり」と、何の難しさもなく展開しているのだが、それを人間が「難しい」と受け取っているだけなのだ。だから、「難しさ」は仏法にあるわけではなく、ひたすら人間の側にあるのである。人間が複雑だから、仏法も難しく感じてしまうのだ。
 まあそうは言うものの、やはり仏法は難しいものだ。それは古来から、仏法を聞くことは、三千大千世界を挙げるよりも難しいと言われるようなものだ。親鸞も『讃阿弥陀仏偈和讃』で、
 たとい大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり
と詠っている。「たとえ世界中が火の海になったとしても、ひるまず進み、阿弥陀仏の名号を聞き信じる人は、決して迷いの世界にもどることのない身となるのである」(『浄土真宗聖典 三帖和讃』本願寺出版社)と。
 世界中が火の海になっても、それに恐れを懐かずに、突き進まなくては仏法に出遇えないほどに、「難しい」のだ。
 この「難しさ」はお釈迦様が覚りを開こうとしたときの「難しさ」であり、親鸞が「金剛堅固の信心」を獲ることの「難しさ」でもある。だから、「難しい」のは当然と言えば、当然なのだ。たとえ難しくとも、私一人が仏法を喜べるようにならなければ、「万人の救い」を誓った阿弥陀さんの願いがウソになってしまう。だから、石にかじりついてもやり通さなければならない。言葉を換えれば、万人を救うための道理を、自分一人が開拓していくのだから、「難しい」のは当たり前だ。〈真・宗〉は、御釈迦さんや親鸞が作った仏法を「棚ぼた式」にもらえるような安直なものではない。御釈迦さんと親鸞が通った「難しさ」と、同質の「難しさ」を自分も体験するのだ。それでこそ、御釈迦さんや親鸞の苦労も感じ取れるというものだ。
 やがて、仏法は「難しい」と言っては愚癡を吐いていた自分が、「難しくてよかった」と、肩の荷を下ろすときが来る。
 「難しい、難しい」といって鬱々としていた自分が、「難しい」のは当たり前と言って、「難しさ」から解放されていくのだ。仏法は、決して人間の頭に入るものではない。人間の頭が解体され溶解されるものだ。
 鬱屈した難しさは、ディフィカルトの「難しさ」だが、晴れ晴れした難しさは、インポッシブルの「難しさ」だ。ディフィカルトは、「〈いま〉を拒否することから生まれる」感覚だ。いまはまだ分かっていないという鬱屈だ。しかし、インポッシブルは、向こうから立ち現れてくる〈いま〉に満たされることだ。インポッシブルは、〈いま〉を拒否する人間の頭を解体して、〈いま〉で満たす。
 これは譬喩的な表現だが、阿弥陀さんへ土産を持っていきたいのだ。こんなに理解できましたよ、こんなに頑張りましたよ、ようやく阿弥陀さんの前に出られる自分になりましたよと。しかし、阿弥陀さんは、いつも、そのままで会いに来いとおっしゃる。ハダカのままで、難しいままで、そのままのお前で来いと。