法事のとき、また新たな発見があった。なぜ、読経は「漢字の羅列」を読むのか。私は若い頃、この問題に悩んだ。なぜ、ちょっと聞いても、意味不明な漢字の羅列を大声で読むのかと。やはり、聞いても分からないお経を読むのは意味がないのではないかと思っていた。それで、少し意味が分かるように「書き下し文」にしたり、「現代語訳」にしてみたりして、それを門徒の人々に聞いてもらった。そうしたところ、門徒の反応が大きな問題提起になった。門徒は、それを聞いていて多少の意味は分かるが、でも、法事をしてもらったという気分にはならないと言ったのだ。この「意味は分かる」が「法事をしてもらった気分にならない」ということは、どういうことかと。とても大きな問題提起をいただいた。
そして今になってようやく分かったのは、「分かる」ということは意識の表層の出来事であり、「分からない」ということが深層のたましいを納得させる出来事なのだということだ。若い頃の私は「分かる」ということだけを必死になって追究していたようだ。しかし、人間という存在は、そんなに浅いものではなかったのだ。
それが門徒の、「分かるけれども、法事をしてもらった気分にはならない」だ。
目が覚めてみれば、「分かる」なんということは、確かに浅い話だ。目を見開いて、目の前の事実を見てみれば、その本質は「分からない」ことだらけだ。なぜ、自分は生きているのか。この当たり前のような出来事が、目が覚めてみれば、まったく不可思議。間違いなく、「死」に向かって生きているのにも関わらず、絶望もせずに生きている。身体を考えれば、これまたまったく不可思議。空気吸って、それをどのように体内に取り入れているのか。空気の中から酸素を、どのように取り込んでいるのか。あるいは、食べ物もを食べると言っても、それを口中で取り込むのだが、ビタミンとか栄養とか水分とか、それをどのように体内へと取り込むのか。なぜ髪の毛やヒゲが伸びるのか。自分の意志とは、まったく無関係に、身体が成り立っている。
男女から人間が生まれるものであれば、自分の先祖は、三十代で十億七千三百万人以上になる。三十三代まで遡ると、地球上の人口を超えてしまう。これが、「一切の有情はみなもって、世々生々の父母兄弟なり」(歎異抄・第五条)などというイメージを呼び起こしてくるもとにあるものだろう。
そうすると、自分がなぜ自分にまで成ってきたのか、これまたまったく不可思議としか言いようがない。つまり、「分からない」ということが、すべての出来事の〈真実〉なのだ。我々のタマシイは知っているのだ。「分からない」ということが、〈真実〉であることを。だから、「分かる」という世界は浅いことであり、「分からない」ということのほうが、圧倒的に深いのだと。
だから、確かにお経の言葉には意味があるのだ。しかし、法要の読経のときは、意味を考えるべきではないだろう。まあ、何を考えてもよいのだ。そもそも「考える」ということも自分には分からないことだし、〈真実〉は「考えさせられて考えている」ということなのだから。
読経でお経を聞くときは、その意味は無視して、読経の声の響きにすべてをまかせていくべきなのだ。読経の響きにまかせていると、自分のこころの中には様々なことが思い浮かんでくる。それこそ亡くなられた故人のことも、当然思われる。しかしそれだけではないのだ。取るに足らないことや、仕事のこと。これから食事に行くひとは、そのことを思ったりと、取り留めもないことが、次々と頭に浮かんでくる。
しかし、それは自分で予め考えようと計画したものは一つもない、ということが共通している。それもそのはずだ、人間は考えた後にしか、「考え」を知らないからだ。ああ、そう言えば、読経の間に、こんなことを考えていました、というのが〈真実〉なのだ。
そして、それは仏さまが見せて下さった、あなたのこころの世界であるのだ。それは自分が「考えた」ことであると解釈してはならない。どこまでも、仏さまが考えさせて、考えられたことなのだと受け取るべきだ。だから、それこそ「本当のお経」なのだ。読経とは漢字の羅列を読んでいくことだが、それはあなたのこころの奥底へと階段を降りていく、そのエスコートなのだ。意味不明の漢字の羅列だからこそ、タマシイは深層への階段を降りることができる。もちろん漢字の羅列を「お経」というのだが、それは紙に墨で書かれた文字に過ぎない。それが声となって耳に届き、あなたのこころに届くとき、それはあなたの心の中で、初めて生きたお経として再現されるのだろう。読経の響きの中で、初めて、生々しいお経が展開し始める。一生に一回こっきりのライブが、そこに実現する。それが、「法事」と呼ばれている出来事なのだ。
我々は、「法事」という出来事を、すでに分かったことにしてきたのではないか。しかし、「法事」とは、どういうことなのか。それはまだ未知未開の出来事なのだ。毎回の法事が、未知未開の出来事だと、改めて教えられた。まさに「法事」は、私にとっての〈真実〉のメタファーなのだ。シンボルとは、この世の知の範疇に還元される出来事だが、メタファーとは、決してこの世の関心に取り込むことができない、未知未開からの賜物という意味だ。
人間の知は「既知」に対して飽食してしまう。その「既知」に対して、つねに「未知未開」という閃光の鉄槌を下してくれるのが阿弥陀さんというはたらきだ。その閃光の鉄槌が、つねに、「いま・ここ・私」に下され続ける。これほど有り難いことは、他にないのではなかろうか。