「孫」という生きものと、ここのところ関わることが多くなってきた。乳児や幼児という年齢の生きものだ。
「孫」と私が言った瞬間に、「ああ孫ね」と分かってしまうひとは、「孫」を持っているひとだけだ。そして、「孫というのは、幼児の頃は可愛いいけど、大きくなると、お金が欲しいときにしか顔を出さない」などと愚痴ったりする。
しかし、私の言っている「孫」とは、その「孫」ではない。「孫」という言葉によってひとくくりにされる「孫」ではなく、「唯一無二の生きもの」という意味の「孫」だ。つまり、私は「孫」という存在をいまだに分かってはいないのだ。
保育園から帰ってくると、いろいろなことを要求してくる。絵本を読め、ジュースをくれ、オモチャで一緒に遊べ、話を聞け、抱っこしろなどの要求詰めに遭う。私は、その要求に引きずり回される。ジュースをくれというので、ジュースの缶を渡すと、次はコップを自分で棚から取り出し、それに注ごうとする。コップも、プラスチック製の、それもキャラクターの描かれたものを取り出せばよいものを、わざわざガラス製の、落としたら必ず割れるようなコップを取り出す。大人は、近い未来が予測できるので、ジュースをこぼしたり、コップを割ったりするのではないかとヒヤヒヤしながら見守る。思いあまってサポートするときもある。
この生きものは、自分の思いつきや、したいことを大人に要求する生きものだ。それで本人は要求がすんなり通れば満足した顔をしている。すんなり通らなければ、拗ねたりして、しまいには怒り出す。いわば、「煩悩」の言いつけのままに行動している。でも、突き詰めてみれば、これは大人と大差ないことをしているのではなかろうか。大人は多少複雑なシステムで、自分の思いを達成させているけれど、煎じ詰めれば幼児や乳児と本質は変わらない。
そうなってくると、大風呂敷を広げて、「人間は」と言ってみたくなる。まあ「人間は」と言ってみたところで、そんな抽象的な「人間」などはどこにもいないのだ。いつも相手にしているのは、「唯一無二の生きもの」だから。「孫」を見ていると、本当は何をしたいのかが分からないのだと思った。いろいろなものを欲しがるけれども、「このこと一つが欲しい」などという、「このこと一つ」などは分からないのだ。つぎつぎと欲しいものが現れては、消えていく。
人間は、本質的に何が本当に欲しいのかを知らない生きものなのだろう。ただひとつ「分からない」ということだけが、〈真実〉なのだ。「孫」が何かを欲しがるとき、私はそこに「原始人の原像」を見る。おそらく人類の最初の人々は、こうだったのではないかと。つまり、本当に欲しいものが分からない存在だ。
目の前にしている「孫」という生きものは、自分が知っている「孫」ではない。つねに変化し、昨日の「孫」はそこにはいない。だから、自分の知っている、過去の「孫」は幻想だと思う。いつも目の前にしている「孫」は、自分にとって未知の存在なのだ。そして、「原始人の孫」と、「原始人の私」がそこで出会っている。
「分かる」ということは、すべてのことを過去に飲み込む。「分からない」ということひとつが、未来を開く。「分からない」ということの、何とも言えない解放感が訪れてくる。