「存在の零度」の清々しさ

「存在の零度」だけが、救いだ。苦しみは、必ず、人間の「こころ」の中にしか住めない。「幸福」というやつも、「こころ」の中にしか住めない。どこに、「悲しみ」や「幸福」という事物が転がっているのか。そんなものの片鱗は、どこにも落ちていない。
 だから、どれほど「悲しみ」があっても、またどれほどの憎しみがあっても、どれほどの欲望があっても、そんなものは「こころ」という鳥かごの中の出来事だ。
 人間は、自分の見たものは間違いないと思い込んでしまう。これが間違いだ。見たものは、そのように見えたのだから仕方がない。でもそれを間違いないと思い込むことは間違いなのだ。
 自分の思ったどんな些細なことも、また自分が見たどんな出来事も、それは「こころ」の中の出来事だから、そっと、そこに置いておけばよいのだ。
 だってそれは〈真実〉ではないのだから。「こころ」という妄想、妄想というと否定的な感情が付きまとうな。妄想ではなく「恣意的現実」なのだ。だから〈真実〉ではない。
 ああ〈真実〉ではないと教えてくれる清々しさ。それが「存在の零度」だ。これはまるでドーナツの穴だ。だから無いのだ。穴があると見るのは、外側からみた見方だ。穴はブラックホールだから、何でも飲み込んでしまう。これが「存在の零度」だ。だから、どれほどのことが起ころうとも、どれほどのことを経験しようとも、それは必ず「存在の零度」に飲み込まれるから安心だ。
 外は台風の影響で土砂降りの雨。これほどの水が雲の中にあるのか。何万トンの水が空にあるのか。なんで落ちてこないのだろう。植木達に水をやるのに、水道を使うとものすごく時間がかかる。それでも干上がっている大地はなかなか潤すことができない。それなのに、数分間土砂降りが降ると、アッという間に辺りは水で潤される。雲の凄さに敬服だ。
 浄土論註には、「雨功徳」というのがある。経典にも、「法雨を雨降らす」という言葉もあった。雨は、好きなヤツも嫌いなヤツも選ばない。無差別に潤す。これが雨の大慈悲か。
 「存在の零度」が土砂降りのように降ってくる。土砂降りに降ってきて、辺り一面を潤し、どこへともなく消えていく。「存在の零度」は、雨であり雲であり空である。どれひとつを取っても、自分には属さないという清々しさだけが、そこにある。