東京カテドラル聖マリア大聖堂の油谷弘幸神父の話を聞いた。
カソリックの信仰は、「ミサとカテキズム」であると。「カテキズム(教理問答)」とは、知的探求であり、「ミサ」とは、キリストとの邂逅という一度きりの秘蹟体験らしい。当てはまらないけれども、無理に当てはめれば、浄土真宗の、「安心(知)と起行(行為)」、あるいは「聞思」ということに相当するかもしれない。私の言う「聞思」とは、「聞」は、そこから阿弥陀さんの物語が開かれる受動的体験、「思」は、その受動体験から生まれる思索という能動体験である。だから「聞」が先にあることになる。まったく見当違いかも知れないが、おそらく油谷神父の言うところの「ミサ」は、「聞」に相当する出来事なのだと受け取った。
油谷神父にとって、「ミサ」は、そこにキリストましますことの現れなのだろう。教団では、現在「集団」でする「ミサ」を推奨しているそうだが、彼は「一人ミサ」が好きで、一人で行うこともあるという。そもそも「ミサ
missa」は、「聖体拝領」だろうから、キリストの身体(パン)と血(ワイン)を自分の身体に入れることによって、そこにキリストあり、と再確認する儀式ではないか。パウロが書いた「ガラレヤ人への手紙」(2-20)の中の「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」が、それに相当することだろう。我々は、そのことを忘れっぱなしだから、私の身体はキリストなのだと、再確認する儀式が「ミサ」ではないか。
これも牽強付会だが、曽我量深の言う、「如来は我なり、されど我は如来に非ず、如来我となりて我をたすけたもう」に符合することだと思う。これはキリスト教と〈真・宗〉が似ているということに留まらない。「〈真実〉のフォルム」の断片が、両者に表れていると見なければならない。
面白かったのは、ミケランジェロの「ピエタ像」の前でのことだ。聖堂の右手奥には、レプリカだろうけど、原寸大のピエタ蔵(大理石像)が、教会の右手奥に安置されていた。ピエタとは「慈悲」という意味らしい。十字架刑から下ろされたイエスが、聖母マリアの腕の中で横たわっている像だ。素晴らしい石像彫刻である。これを見ている者に、いろいろな感情を懐かせる。私にもいろいろな感情が起こってきたので、敢えて、それを対象化して、私は、「信者さんは、この像の前で、どのような気持ちで祈るのですか」と神父に尋ねた。すると神父は「私は、ブレてしまうので、あまり、この像の前では祈らないのです」と意味深な言葉を吐かれた。これも記憶違いかもしれないが、私はそのように記憶している。
私は直観的に、「なるほど」と思った。なぜならば、この慈愛に満ちた像は、イエスの十字架の悲惨さを聖母マリアが救っているというイメージに偏ってしまうからだ。悲惨が救われる。これは素晴らしいし、それに間違いがないのだが、それを目の前にして見ている自分がいることで、それが「向こうにあること」、つまり、「寓意を込めた譬喩」に受け取られてしまうことだ。この像と自分の間に生まれる「他人事感」が、おそらく神父の言う「ブレる」という意味ではないかと拝察した。
悲惨が救われるとこは間違いないのだが、それが自分の出来事ではなく、目の前の像によって対象化されることで、単なる「物語」へ変質することへの違和感を感じておられたのだと想像する。信仰は、「対象化」され、向こうにある出来事ではなく、まさに「いま・ここ・私」の上に現実となってはたらく出来事だと彼は感じているのだろう。
これも牽強付会だが、〈真・宗〉と共鳴させれば、「どんな悪人でも救われるのが〈真・宗〉です」という表現に対する違和感と似ている。確かに、この表現に間違いはないのだが、そこに「どんな悪人も」と言っている自分と、「悪人」が対象化されて隙間が生まれてしまっている。その発想に違和感を感じるという、その違和感が神父のいう「ブレる」だろう。
神父は、つねにあらゆることを「自分」を抜きには話されなかった。ローマカソリックがどれほど素晴らしく、どれほど権威のある教えであっても、それを自分がどう受け止めるかという「自分」を手放さなかった。
「大地に足を付けた」という譬喩でよいのかどうか分からないが、まさに「妙好人的神父」にお会いすることができ、とても清々しい一日を過ごすことができた。
私の言う「〈真実〉のフォルム」が、まさに顕現していることを目の前にすることができた。