「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」(『歎異抄』第一条)という言葉を安く見積もりすぎていた。自分が世界を見ている眼は透明なものだと高をくくっていた。煩悩は普段は起きない。縁があれば起こるものだと高をくくっていた。
それは「貪欲・瞋恚」という欲望と感情の煩悩だけのことを言っているのだ。一番根本にある「愚癡」(無明)は、私が考えること、見ること、味わうこと、感じること、その全体が汚れているということだ。だから、これは起こすとか起こさないというものではなく、私が、最初から最後まで、これによって支えられているようなはたらきのことだ。
唯識は、それを「末那識」と呼んだ。私の言葉で言えば、「利害損得心」である。だから、「自分を愛するように隣人を愛せよ」と命じられたなら、私は死ぬしかない。決して自分にはできないことだからだ。ちょっとはできるだろうと詰め寄られれば、「少しくらいはできますよ」と答えられても、「〈ほんとう〉にできるのか」と問われれば、それはできないと答えるしかない。〈真実〉の問いは、「ゼロか百か」、「イエスかノーか」以外の答えを、答えとして認めない。
つまり、私は、真っ黒な「利害損得心」以外では、この世と関係を持てないということだ。
いつも思い出すことだが、お父さんを亡くした娘さんが、悲しみに沈んでいるお母さんに、言い放った言葉だ。「お母さんはお父さんのために泣いているんじゃない。お母さんはお父さんがいなくなって、自分が寂しいだけで泣いているのよ」だ。ここに悲しいけれども、人間の本質が言い当てられている。つまり、ひとはひとのためには泣けない動物ということだ。どれほど愛する者を失ったとしても、それは純粋の愛で泣いているのではなく、自分の「利害損得心」の不満足が泣かせているということだ。
そうすると、悲しみとは、この「利害損得心」が生み出す感情ということになる。「利害損得心」を抜きにして、人間は泣くことはないのだ。つまりは、自分が寂しいから、自分の満足が損なわれるから悲しいのだ。
人間とは、どこまで言っても「利害損得心」の生きものだ。だから愛というものに、夢を見なくてよい。別にそれは、人間を貶しているのでも、見下しているのでも、馬鹿にしているのでもない。事実を言っているだけだ。
困っているのは「利害損得心」であり、「自分」ではないと棲み分けができればよいのだ。