岐阜県の高山教区から依頼があり、「ひだ御坊」という新聞の「巻頭言」的なものを書いた。テーマは、代わり映えのない、「〈一人一世界〉への目覚め」だ。ただ、ここに小生の写真を載せられないのが残念だ。依頼者から小生の上半身の写真を送ってくれと言われたので、以前いただいた「〈一人一世界〉」Tシャツを着て撮った写真を送ったからだ。(「ひだ御坊」2023/07/01発行号)
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絶界の個に還る。私はこの世に存在する唯一なる存在である。他者と決して、溶け合うことも比べることもできない固有の世界である。この世界の発見が、「親鸞一人」の発見であろう。つまり、この世に生きているのは、私一人しかいないという目覚めだ。それでは、私の眼に映る他者や他の事物は何かと問われれば、それはすべて私一人を成り立たせている世界である。空気も水も大地も、草木も動物も、さらに何十億人という他者も、私一人を成り立たせている。それを私は〈一人一世界〉と名づけている。
それに対立する見方を「一世界全人類包摂世界観」と名づけている。これはこの世界は一つであり、その中にたくさんの生き物が暮らしているという見方だ。これは常識にまでなっているから、これのどこがおかしいかを感じることもできない。ところが生き物を丁寧に観察した動物学者のユクスキュルは、一つの世界にたくさんの生き物が生きているという世界観を「妄想」と呼んで、こう言っている。
「この妄想は、世界というものは、ただ一つしか存在しないもので、その中にあらゆる生物主体が一様にはめこまれているという信仰によって培われている。ここからすべての生物に対して、ただ一つの空間と時間しか存在しないはずだという、ごく一般的な確信が生まれてくる。」(『生物から見た世界』)
彼は、学んだのだ。生物には生物独自の世界があり、決して人間が見ているように、世界は一つではなく、ひとつの生物にひとつの生活世界があることを。だから、人間にも人間固有の世界があり、八〇億人には、八〇億の独自の世界があると見破った。しかし、人間は、それを大雑把に抽象化した。それぞれの違いに目をつぶり、一つの大きな袋ような世界にすべての生き物を放り込んで、その中を生きていると考えた。この世界は一つだという見方は、実に恐ろしい。「世界は一つ」という観念は、この世を生きる価値観を一元化しやすいからだ。たとえば、「死」という観念も一元化した。生者は、「死」を体験できないにも関わらず「死を知っている」という観念を共同で作り上げた。生者が知っている「死」は二人称、あるいは三人称の「死」であって、一人称の「死」ではない。つまり、「本当の死」を知らない。知らないのに、「死を知っている」と思い込み、「暗く、冷たく、寂しい」ものだと評価した。この観念を親鸞は「断」と言って解体する。「生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。」(『教行信証』信巻)と。〈真・宗〉は、死んでから、人間の予想するような地獄や浄土へ生まれるわけではないし、また他なる生き物に生まれ変わることでもないと否定する。この「断」は、人間が「死」を知っているという思い上がりを解体する。さらに、「死」の裏側にある「生」をも、不可知として阿弥陀さんに明け渡す。「生」も「死」も、ともに人間にとっては未だに未知の領域にある。それを、「阿弥陀さんにおまかせする」と〈真・宗〉は表現してきたのだ。