新幹線に乗ると、車内販売の女の子と出くわす。その度に、自分は、何か済まないものを感じてしまう。自分には、買いたい物がないので、自分の席をいつも素通りさせてしまう。本当は、何かを買ってあげればいいのに、買いたい物がないので、素通りしていく。新幹線は揺れが少ないとは言え、右左に曲がるカーブに抗して、彼女はワゴンをコントロールしながら、乗客にぶつからないように、苦心しながら押していく。
女の子は、思っているだろう。「なんでお客さんは、品物を買ってくれないのだろう」と。「買ってくれれば、時給以外に割り増しが上がるというのに」と。あるいは「どうせお客さんは、品物など買ってくれないに違いない。だから、ひたすら決められた時間の間は、ワゴンを押すだけだ」と。
まあ彼女がどう思おうと、私は、彼女が通る度に済まない気持ちになる。そう思っていたら、「なんで済まない気持ちになるのですか」と聞かれたことがある。彼女は自分の仕事をまっとしているだけなのだから、済まないと思う必要はないのではないかと。確かに、彼女の仕事であるに違いない。だから、私が済まないと感じる必要はないのかも知れない。
しかし、彼女は「お金」だけのために働いているのだろうかと思ってしまうのだ。たとえ彼女が、「自分はお金のために働いているのだ」と思っていたとしてもだ。そんなこととは無関係に、「お金」だけのために働いているのだろうかという問いの答えにはなっていない。
彼女が「お金」のためだけに働いていると見える眼は、資本主義的意味場の眼ではなかろうか。確かに「お金」のためにはたらいている、という意味もあろう。しかし、それだけだろうか。それは彼女にとっての、「一つの意味」に過ぎないのではないか。その他の「九十九の意味」は見えないのだろう。
「九十九の意味」は、人間には見えないのだが、それを「菩薩行」と言うのだろう。彼女が「菩薩」だという意味ではなく、彼女を「菩薩」としていただかせるはたらきが「菩薩行」である。だから例え彼女が、自分は「お金」のためにはたらいているのだと思っていたとしても、それとはまったく無関係に、彼女を「菩薩」として感じさせるものがある。
彼女は「菩薩行」をされているのだ。その目で車内を見渡してみれば、「菩薩」でない存在はいなかった。でも、それがどういう意味を持った存在であるのかは教えられていないのだ。「九十九の意味」は人間には見えないのだから。