命令形と否定形(時間の逆流と環流)

初めに「本願」あり、と直観した。もし「初めに」「本願」がなかったら、この世はまったく無味乾燥なものになるだろう。『旧約聖書』は、「はじめに神は天と地とを創造された」で始まる。また『新約聖書』(ヨハネ書)は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と始まる。
 その「初め」に何を置くか。それがそのひとのすべてを規定する。
 「本願」とは「本弘誓願」の略称だから、それは「最も根本的な誓願」という意味である。宇宙開闢以前から発ってきた阿弥陀の本願の展開として、〈いま〉がある。これは「阿弥陀さんの救済物語」の中でのことだ。だからこの物語を受け入れないひとには、ないに等しい。この世全体が、阿弥陀さんの荘厳(象徴)であり、その中に自分がいる。自分も荘厳の中の一つだ。だから、私が、いま、ここに存在しているということは、阿弥陀さんが必要とされているからだろうとも思う。人間の事情で、この世に存在しているわけではない。
 外に目をやると、青々とした青桐の木が風を受けて、サワサワと揺れ動くのが見える。おそらく、彼がそこに存在する理由と、自分がここに存在する理由は同じなのだろう。
 今朝のお朝事の御和讃は、「一代諸経の信よりも 弘願の信楽なおかたし 難中之難とときたまい 無過此難とのべたまう」(浄土和讃)だった。これを読んでいて、あらためてビックリした。「一代諸経の信よりも」とは、あらゆるお経に説かれている「信」というものよりも、という意味だ。それよりも「弘願の信(楽)」のほうが比べられないくらいに、有ることが難しいと。「一代諸経の信」とは、我々人間が「信じよう」とすることだ。ということは、もうすでに「信」ということを知っているという前提で考えてしまう。「信」という言葉があるから、それを見た途端に、我々は自分がすでに知っている「信」という言葉の意味を当てはめて、反応してしまう。菩薩の修行段階を示した、「十地」も、第一歩を「信」と置いている。「信」が起こって、そこから行、つまり修行の行為が起こってくる。こういう発想が、「一代諸経の信」だ。
 それでは、「弘願の信楽」とは何か。それは、「さあこれから」と思う発想を引っ繰り返すはたらきだ。そして、「すでにして」向こうから与えられているすべて(いま・ここ・私)に目を釘付けにする。人間は、ついつい「さあこれから」と考えてしまうのだ。その発想が通用する表層の世界を知っているから。ところが、深層のところは、それで成り立ってはいない。
 「すでにして」という目覚めが促されてくると、時間の逆流が始まる。「いま・ここ・私」が成り立っている、あらゆる過去へ、さらに「弥陀成仏のこのかた」にまで遡っていく。さらにこの逆流は、そのままでは留まらない。そこからさらに還流してきて、無限の過去を背景にした「いま・ここ・私」として、改めて立ち現れてくる。この無限の過去への逆流、さらにその過去から還流されてきた「いま・ここ・私」とが往復運動のように拍動する。
 これが「弘願の信楽」の動態だ。こんなことは、「難中之難」であり、「無過此難」だ。これは我々の知っている「信」などという言葉では、まったく表現することができない。
 敢えて「信」という言葉で、比喩的に言えば、それは「信ぜよ」という命令になる。これは人間が、「信ずる」という意味で考えることのできないものである。「信ずる」と言えば、それは人間の心掛けになってしまう。ところが「信ぜよ」は、自分の外部からの命令で、それを比喩的に「阿弥陀さんの命令」と言っているに過ぎない。「信」は人間の外部にあるものだから、「平等」が成り立つ。我々の経験とされたり、自覚内容にされたら、それは「平等」ではない。だから「阿弥陀さん」の「信ぜよ」という命令は、人間に「信ずる」ことを、まったく期待していない。「信ぜよ」という命令を聞いて、「信じられる者」に成れという期待はない。ただ「信ぜよ」という命令を受け取るだけだ。「信ぜよ」という命令が聞こえたということで、阿弥陀さんは満足なのだ。阿弥陀さんの命令は、一回だけのものではなく、人間が忘れているだけで、「つねに」命じて下さっている。人間が目覚めれば、それは「つねに」ある命令である。だから、「いま・ここ・私」は、「不信の場」でなければならない。
 「弘願の信楽」とは時間の逆流であり、還流である。その往復運動が命令となって人間に関わって下さる。
 親鸞の言葉で命令を語れば、「帰命は本願招喚の勅命なり」(『教行信証』行巻)である。「『おまかせする』とは、阿弥陀さんが私を招き呼ぶ絶対の命令である」という意味だ。つまり、「おまかせせよ」という絶対命令であり、いままでの文脈で言えば、「信ぜよ」という意味だ。
 「命令」で有名なのは、モーセの十誡であろう。その最初の神の誡めは、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(日本聖書協会訳1955)とある。しかし、聖書協会共同訳2018では、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」と改訳されている。「命令」が多少弱い表現になっているように感じられる。なぜこのように改訳されたのか、その事情は知るよしもないが、一つには関根正雄(聖書学者)のような考えがあったからではなかろうか。彼は、こう述べている。「十誡の否定形を禁止命令ととかく取りがちだが、ヘブライ語で禁止命令は別の形を使う。十誡の否定形は直訳すれば「君は‥‥するとこはない。となる。出エジプト以来の神の恩恵に答え、イスラエルが行うことのありえない項目をあげているのである。」(『古代イスラエルの思想』講談社学術文庫)さらにその「否定形」を説明して、「霊的な生命共同体が前提されていて、それが『‥‥することはないのだ』という、いわば外側に対してある限界を設け、外側に対する内側の生命の確保を否定の形で述べているのであると解したい。消極的、否定的に述べればじゅうぶんなほど、内側の霊的生命があふてれいるのである。そこに神との交わりとしての契約が戒めを伴う本来の意味がある。」と。
 彼の主張を敷衍すれば、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」と「命令形」で訳すべきではない。彼の思いを汲んで「否定形」で訳せば、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としない」となろう。もっと言えば、「神とする必要がなくなる」となろう。なぜ「神としない」のかと言えば、それは「内側の霊的生命があふれているので」、自発的に他の神々を「神としない」というこころが生まれるのだろう。神が「外側」に立って、「神としてはならない」と命じているのではなく、あなたの中に神があれば、決して他の神々を祀るという必然性が生まれないのだと言っている。
 これは面白い指摘だと思う。親鸞が「本願招喚の勅命」というとき、これに似たことが起こっているように思う。つまり、阿弥陀さんが衆生の「内側」に溢れていれば、「信ぜよ」という命令は、「信じる必要はない」という否定形で表現できることになる。「信ぜよ」は、阿弥陀さんが衆生の「内側」に成り立ったことを物語っている。これが成り立つとき、もはや人間の内面から「信じる」という自発性が否定される。「信ぜよ」は自己の外側からの命令表現だが、それが内側からの命令として満たされるのだ。それは衆生が「信じようとする」必然性を、ことごとく否定する。つまり、「さあこれから」という思いを完全に否定し、「すでにして」という「いま・ここ・私」で満たす。この時間の「逆流と環流」という往復運動が、「存在の零度」で起こっている。