関東の門弟が、親鸞を疑わざるを得なかったことも納得できる。
「たかが、念仏を称えるだけで浄土に往生できるなどとは、虫がよすぎる。師・親鸞は私たちが劣等生だから、初歩の手ほどきとして、そう言っているに違いない。きっと私たちには言うこともできないような実践法をご存じなのだ。第一、二十年間も比叡山でご修行されたのだから、せめてそのくらいの努力をしなければ、とても浄土へ往生することなどできやしないだろう」と。
こんな疑問があったから、関東の門弟たちは京都にいる師・親鸞を訪ねざるを得なかった。それに対して親鸞は、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」と答えている。ここで述べられた、「ただ」は、「念仏」にも掛かっているが、「信ずる」にも掛かっているだろう。親鸞が曖昧な表現をしているので、どちらに重点を置かれているのか不明だ。
それはともかく、私は親鸞が、このように答えたところに、〈いま〉という時間を開いているように感じる。門弟達は、過去の親鸞の修行業績を推し量ってみたり、あるいは、浄土へ往生するための過酷な実践行を隠匿しているのではないかと疑っている。息子(善鸞)には言えても、他人である、我々、門弟達には何かを隠しているのではないかと。
〈真・宗〉は、「未来」を信じない宗教だ。「明日」を必要としない教えだ。だから、「明日」には何かが開かれるのではないかと、未来へ期待し待望するこころを超えさせる。たとえ「浄土往生」という用語を使おうとも、それは「未来」に浄土へ往生するということを示しているのではない。「未来」において浄土へ往生するのか、地獄へ往くのか、その問題関心をすべて阿弥陀さんに放擲せよということだ。だから、親鸞の関心は〈いま〉以外にはない。〈いま〉放擲しているか、〈いま〉を未来の種として見失っているか。
まあ、〈真・宗〉の教えを聞き始めたひとに、「どうしたら〈真実〉の信心を獲ることができますか?」と問われれば、まあ「仏法を聴聞しましょう」と答えるだろう。でも、この応え方は、〈真実〉には背いている。それは「未来」を待望するこころの構えになっているからだ。究極の応え方は、「何もする必要はありません。」と答えなければならない。この応え方は、「未来」ではなく、〈いま〉を問題にしている。つまり、「どうかしたら〈真実〉信心を獲ることができる」と思っている、その思いが迷いを生んでいるのだから、その思いを手放さなければ、〈いま〉が開かれない。「どうしたら」(how to)という問いが出てくる源には、自分は何でもできるという思いがある。これを「自力のこころ」という。「どうしたら」という問いは、実践法を聞いている態度だ。いろいろな実践法があるけれども、どれをしたらよいですか、それを私がして信心を獲たいと思いますと言っていることになる。そこには自分には、実践行をちゃんとできる力があるのですから、実践法を教えて下さい。それを実践して信心を獲たいと思います。この発想は自己過信である。「弥陀にたすけられまいらすべし」ではなく、自分の努力で助けられようとしていることになる。
それは、人間のあらゆる「努力」を否定するものではない。「努力」も大切な人間の徳性だ。まあ「努力」ということも、未来に当てはめれば、「努力も大切だ」という考えになるし、過去に当てはめれば、「私は努力してきた」と自惚れることにもなる。だから「努力」という言葉が有効な場面もあるけれども、こと〈真・宗〉の信心獲得には無効なのだ。
親鸞は、門弟達が「未来」と「過去」に執われて、〈いま〉が抜けていることを直観したのではないか。それが、「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」という表白となって現れた。ここには「未来」に浄土に往くのか地獄に往くのか、それを〈いま〉放擲している親鸞が表れている。つくづく〈真・宗〉は「目覚め」の宗教だと思われる。それは「目覚め」であって、「自覚」ではない。「自覚」という言葉にはまだ自力の残臭がある。どうしても、「自分が自覚する」という意味場で成り立ってしまう。しかし、「目覚め」ということばには、自力の残臭がない。布団の中で目を覚ますことに、自分の努力はどこにも関与していないからだ。目を覚まそうとして覚めるひとは、この世に存在しない。目はおのずと覚めるのである。目覚めとは、〈いま〉を抜かして成り立たない。
「千歳の闇室」という例えが、曇鸞の『浄土論註』にある。「たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや。」と。たとえば千年間、真っ暗闇だった部屋があるとして、そこに一瞬でもひかりが差せば、その部屋はたちまち明るくなるだろうと。闇が千年間覆っていたとしても、明るくなるために、千年かかるということはない。明るくなるためには、一瞬があれば十分だ。これは〈いま〉の持っている力を十分に譬えている。
問題は〈いま〉以外にないのだ。また振り返って考えてみれば、人間は〈いま〉以外を生きたことがないのだ。過去を思う〈いま〉があり、未来を予想する〈いま〉しかない。しかし、私が「〈いま〉」と言うものだから、林修の言う「いまでしょ!」と使っている「いま」と誤解して、納得されてしまうときもある。林修の「いま」は、言えば「流れる時間(通時的時間・常識的時間)」の中の「いま」ですが、私の言う〈いま〉は、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」の〈いま〉だ。この〈いま〉は、「流れない時間(共時的時間・物語的時間)」のことである。
この〈いま〉は、常識的時間を「流れる時間」として対象化させる時間のことだ。いままで物理的にも、客観的にも時間は流れるものだと思っていた思いが、「幻想」だと目覚める時間だ。だから、〈ほんとう〉の「時間」は、「流れない時間」のことである。でも、この時間を人間は生きることができない。庄松が「御本尊様が物を仰せられたら、お前等は一時もここに生きて居られぬ」(『庄松ありのままの記』)と言ったことと通じている。住職が「うちの本堂の本尊は生きているだろうか?」と問うたのに対して、庄松は「生きとる、生きとる」と答えた。その答えを聞いた住職は、「生きていても、何も話さないではないか?」と問い返した時の応答が、それだ。
庄松が「生きとる、生きとる」と言ったのは、阿弥陀さんの否定力を譬喩的に語ったのだ。だから、庄松が、自分の耳の鼓膜の響きで、阿弥陀さんの声を聞いているわけではない。住職は、音声として阿弥陀さんが話さないではないかと聞いているが、庄松は「意味」を聞いているのだ。音声が聞こえてきたら、それは妄想だ。「意味」を聞いて「生きとる、生きとる」と答えたまでだ。だから、もし音声として聞こえてきたら、それは妄想だ。そうやって庄松は、阿弥陀さんの住んでいる次元と我々の次元の違いを明確に伝えたのだ。
それを敷衍すれば、阿弥陀さんの時間を我々は生きることができない。それは〈真実〉の時間であり、「流れない時間」だから。でも、それを〈真実〉だと教える阿弥陀さんがいるだけだ。我々には「流れない時間」を生きることなどできない。できないからこそよかったのだ。もしその時間を生きられたら、それこそ阿弥陀さんと縁が切れてしまう。〈真実〉とは決して触れられず、見ることも、語ることもできないからこそ〈真実〉なのだ。
それで我々は「そらごとたわごとまことあることなき」世界を、「そらごとたわごとまことあることなき」として生きられる。この「まことあることなき」という阿弥陀さんの否定力が御利益なのだ。