ひと(他人)の座に着くな

随分昔のことだ。それは京都の高倉会館の日曜公演でのことだ。ある講師が、お話をしているとき、彼がテーブルに置かれていたコップを誤って倒してしまい、中の水がこぼれ演台が濡れてしまったことがあった。周りのひとたちが慌てて、水を拭いたりと、お話が一時途切れた。やがて、水もすべて拭き取られて、平静が戻ったとき、その講師は、開口一番、「如来さんのご催促だなあ」などとおっしゃった。つまり、コップを誤って倒してしまい、中の水をぶちまけてしまったことを、阿弥陀さんのせいにしたのだ。
 私はその言葉を聞いていて、違和感を感じた。そんなことを言ったら、何でも自己弁護になるじゃないか。自分を肯定する為に阿弥陀さんを利用しているだけじゃないかと。この講師はとんでもないことを言っていると、怒りすら感じていたようだ。
 そのことがあってから、何十年経ったのだろうか。恐らく、四十年近くは経っているに違いない。そして近頃、そのことが思い出される。そして落ち着いたところが、その感じ方は、私の若気の至りだったなあという恥ずかしい思いだ。あやゆることが阿弥陀さんのお指図でなかったら、「絶対他力」などは成り立たないのだ。それで親鸞も『歎異抄』(十三条)で、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」とおっしゃったのだ。「さるべき業縁」とは、そのようにさせる阿弥陀さんのお指図という意味だ。人間の深層は、この「さるべき業縁」以外では動いていない。これが本願の世界だ。
 表層の自我は、それを自己肯定の材料として使おうとする。「何をやっても業縁ならば、どんな悪いことをしたっていいじゃないか」と。また、「すべてが業縁で動いているとなると、どんな犯罪を犯しても、罪が問われなくなるじゃないか」と危惧をする。そういう危惧が生まれるのは、深層と表層の自己の違いが見えていないからだ。 
 表層の世界では、人間は集団生活をする生きものだから、守らなければならない約束が必要だ。近代法を極簡単に言えば、「自分がして欲しくないことを他人にしてはいけない」というものだ。これが破られるところに、あらゆる犯罪の根っこがある。
 これは以前にも書いたことだが、私は宗教的倫理の究極は、相田みつをさんの「いいことはおかげさま、わるいことは身から出たさび」だと思っていた。現実の表層の世界では、「いいことは」自分のせい、「わるいことは」他人のせいにしたがる。しかし、そこに信仰が媒介すると、「いいことはおかげさま、わるいことは身から出たさび」と引き受けることができる。
 それを深層から逆照してみると、「わるいことは身から出たさび」は、まだ「自己責任」という地獄に堕ちている。その「自己」と言わしめるものは、慚愧のこころだ。阿闍世が父を殺して、心身症になるほど苦しんだ姿がそれだ。
 その「自己」の底を突き破ったところに、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」はあるのだ。それが「善いことも悪いことも、すべて阿弥陀さんのせい」である。「阿弥陀さんのせい」と言い切れることで、自己の無化された世界に出て行ける。それは「無我」の世界だ。
 そこに生きているのが深層の自己だ。だからと言って、「いいことはおかげさま わるいことは身から出たさび」を捨てたわけじゃない。やはり、表層の自己は、「わるいことは身から出たさび」と受け止めている。しかし、その自己は阿弥陀さんだと受け取ったうえでのことだ。深層は、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」だから、人間の反省や後悔の届かないほどに深い世界だ。もはや、自己とか阿弥陀さんとか分割できない世界だ。もっと言えば、阿弥陀さん一色の世界になってしまう。そこには「南無(自己)」が抹消してしまう。しかし、そこから一気に浮上して表層に戻ってきたとき、「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)という自己(南無)が現れる。そこで初めて、「南無阿弥陀仏」が成立する。深層には「恥ずべし、傷むべし」という慚愧の矢が届かない。「恥ずべし、傷むべし」は、そこにまだ自己から罪を抹消しようとする「善人姓」が残っているからだ。罪と一体化していない。だから、「自力のこころ」の暗さが残る。それが再度、阿弥陀さんからの回向によって解体されると、「柔和忍辱のこころ」(『歎異抄』第十六条)が生まれる。これが「ただほれぼれと」(同)という言葉を生み出すこころだ。私は「ただほれぼれと」という世界が「懺悔」の世界だと思っている。
 さて、再度、振り出しに戻って考えて見る。 
 私が、その講師の話を聞いたとき、「自己責任はどうするんだ、もしそんなことが許されたら、どんな犯罪も許されてしまうではないか」と感じた自己とは、自分抜きの自己になっていた。そう感じたとき、自己は「もし第三者が、その講師の話を聞いたら、無責任として受け取ってしまうではないか」と危ぶむ自己になっていた。自己を見る目が、他者の方向に行ってしまい、自己の深層に向かっていなかった。これを〈真・宗〉では、「ひと)(他人)の座に着く」と表現してきた。その「座」とは、「視座」のことだ。自己一人が、阿弥陀さんを前にして聴聞しているのに、ついつい聞いているうちに、頭が「ひと(他人)の座に着く」のだ。つまり自分抜きだ。阿弥陀さんは自分が抜けたところには、おられない。
 数十年経って、初めて、その間違いに気づいた。その講師は、誰に向かって話していたのか。それは阿弥陀さんに向かって、まさに信仰告白として、「如来さんのご催促だなあ」と漏らしたのだ。それは、深層の〈真実〉を語っておられたのだ。自分では、コップを倒すなどということは、毛頭、予想していないのだ。自分は「自力のこころ」だから、間違いは決して犯さない人間だと自惚れている。ところが、間違いを犯した。それこそ自分の力で生きていると思ったている自惚れを、一挙に打ち砕く阿弥陀さんのご回向である。これが講師と阿弥陀さんの間に起こっていた〈真実〉なのだ。
 「さて、お前はどうなんだ?」と阿弥陀さんから問われていたのだ。それなのに私は「ひと(他人)の座」に着いてしまった。自分一人に浴びせられた阿弥陀さんの法の雨を、他人事として聞いてしまっていた。他人事だとしている間は、阿弥陀さんとは出遇えないのだなあ。その言い方は、ちょっとおかしい。阿弥陀さんとは、「弥陀成仏のこのかた」以来、出遇いっぱなしなのだ。ただ自分には見えていないから、まだ出遇ってはいないと感じているだけなのだ。〈ほんとう〉は、阿弥陀さんはお待ちになっているのだろう。お前の目の前には、私(阿弥陀)以外にはいないのだと。