昨日の聞法会(岡崎教区第20組)の質疑応答で、「お釈迦様は実在ですが、阿弥陀さんは架空の存在ですね。これをどう考えればよいのか」という質問が出た。それに対して私は、「お釈迦様」は「教主」であり、「教えの主」。これは親鸞も使っている言葉で、「阿弥陀さん」は「救主」であり、「救いの主」と答えた。「救主」という言葉を親鸞は使ってはいないが、意味としては、そういうことになる。
さらに「教主」とは、「言葉」であり、「救主」とは「意味」のことであると答えた。「お釈迦様」が説かれた言語体系が仏教だが、いま現存する「お経」のすべてを釈迦一人が説いたわけではない。釈迦と同じ課題に目覚めた人間達、つまり、「経典製作者」たちの言語体系でもある。その意味で、言葉は記号であるから、後代のものが読めるものとなった。その極めつけが、「仏の名号をもって、経の体とするなり」(『教行信証』教巻)だ。仏教は膨大な言語体系であるけれども、それを煮詰めて丸薬にしたものが「南無阿弥陀仏」という「名号」である。だから、この「南無阿弥陀仏」が全言語体系の「体」である。すべての仏教経典が指し示している究極の意味が「南無阿弥陀仏」ということになる。
これは前文の「如来の本願を説きて、経の宗致とす」に対応して書かれている。「如来の本願」とは、阿弥陀さんの発した本願のことであり、それが「経の宗致」だという。この「宗致」というのは、「究極の意味」ということだ。「名号(南無阿弥陀仏)」は、全経典、つまり全言語体系を網羅した「言葉」であり、その言語体系が指し示している「意味」が「如来の本願」という関係になる。
もっと簡単に言えば、「教主」は「言葉」の次元を示し、「救主」は「意味」の次元を示す。「救いの表現」と「救いの意味」である。だから、我々は、「救いの表現」を通して、そこに「救いの意味」を見出すことができる。「言葉」無くして、救いは成り立たないが、決して「言葉」に救われるわけではない。どこまでも、「意味」に救われるのである。
質問者は、「阿弥陀さんは架空の存在」だとおっしゃっていたように記憶するが、その「架空」とは「意味」の次元のことである。「架空」という言葉は、この世に実在しないもので、それは人間が想像した想像物という意味である。しかし、それは「意味」ということなのだ。だから、実在するものは、「言葉」以外にない。「南無阿弥陀仏」という「言葉」以外にない。ただ、その「言葉」から生み出される「意味」によって我々は救われるのだ。
そこで辞書を引き合いに出した。我々は、「言葉」の意味を調べるために辞書を引く。しかし、辞書にはどこを探しても「意味」は見つからない。そこに「実在」しているものは「言葉」の羅列でしかない。しかし、この「言葉」の羅列を見ることによって、そこから我々は「意味」を受け取るのだ。「意味」はどこにあるのかと言えば、それは我々のこころの中だ。こころの中以外の場所に「意味」は住めない。言えばすべての「意味」は、それこそ「架空の存在」でしかない。だれも「意味」を目で見たことがないからだ。見ることができるのは「言葉」以外にはない。
質問者は、「架空の存在」という言葉を否定的に用いられているように感じたが、我々のこころは「架空」以外のものを受け取ることはできない。確かに「知覚」は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という器官を通して感じられるものだが、そこからもう一つ深層にある「意識」が、五官を統合している。五官は「感じる」ものであり、意識は「知る・思う」というはたらきだ。
象徴的な言い方をすると、「痛みは身に住み、悲しみはこころに住む」ということになる。もっと積極的に言えば、「痛みは身以外には住むことができない。悲しみはこころ以外に住めない」のだ。
このように考えれば、「阿弥陀さんは架空の存在」という言葉が、否定的には聞こえない。お釈迦様は実在のひとだから確かなことだが、阿弥陀さんは架空の存在だ不確かな存在だと考えなくてよい。「阿弥陀さん」とは、「意味」だったのだ。「意味」は「不確かな存在」でしかない。どこにも「実在」しないのだから。もし「阿弥陀さん」が「実在」してしまったら、我々に救いはないのだ。