「悲劇の主人公」を生きるのか、それとも「人類の標本」を生きるのか。「現代人は」と書き始めて、これは随分、遠慮した言い方だと気づいてやめた。やはり、「人類は」と書かなければならないだろう。人類は、まっしぐらに「絶望道」の人生を送っている。
今年98歳になる宇野千代さんが、『98歳まで生きてわかった、「超ポジティブ思考」がいちばん!』という新刊を出した。その宣伝が新聞に出ていた。その宣伝文句の中に、「死ぬことなんか考えない」というような言葉があり、えっと思った。これは仏教とは真逆の発想だからだ。仏教は、人類がひた隠しにしてきた「死」を掘り出してきて、店頭に並べて、「どうだ!」と言って突き付けるものだ。だから、人類に好まれるものではない。人類は、宇野さんのような発想が欲しいのだろう。またこのようなタイトルの本が売れるということは、人類が「死」には目もくれず、ひたすらポジティブに生きたいと願っているからなのだろう。これを買うひとたちは、自分は「ポジティブ思考」では生きられない、でも、この生き方をしたいと願っているひとたちだろう。
「ポジティブ思考」が「真昼」だとすると、仏教は「深夜」かも知れない。昼間は、「ポジティブ思考」で、ある程度は済ませることができるかも知れない。しかし、夜中はどうだろう。夜中に寝床の中で目が覚めてしまい、あれこれと考え出すと寝られないということもあろう。夜中の寝床の中は、自分一人しかいないから、孤独の世界に堕ちていくしかない。まさに仏教は、この「白昼の死角」が如き時空が入門の門なのだ。昼間、「ポジティブ思考」で生きていたひとが、この「白昼の死角」に気づいてしまい、地下への階段の扉が開く。周りを見渡してみても、誰も、この扉に気付いているひとはいないようだ。みんなは、見て見ぬふりをしているのか、あるいはまったく気づいていないのか、まるでこの扉がないかのように歩いている。この扉に気づいてしまった者は、私一人なのか。でも、気づいてしまったら、もう後戻りはできない。気づく前の自分には戻ることができない。
「隣の芝生は青い」とはよく言われることだ。自分から見ると、隣の家の芝生はいつでも青々と美しく見えるものだ。この「芝生の青さ」とは、家庭円満、ご主人は高収入、家も豪華、子どもは一流大学に通って、一流企業に勤めているなどというものだろう。それに比べて自分は、情けない人生を送っていると思ってしまう。自分の庭は、草も枯れ果て、穴だらけと言った有様だ。これを突き詰めれば、「悲劇の主人公」の人生観となろう。このひとは知っているのだ、自分には誕生日があるが、やがて自分の命日がやってくることを。だから何とかこれを打ち消したい。ポジティブに生きたいと願ってしまう。
しかし、それは自分から見ているから見えないだけで、お隣の庭に行ってみれば、お隣の庭も自分の庭と同じで、そうそう変わらない穴が空いていたり、芝の枯れているところも見えるものだ。「事実は小説よりも奇なり」と言って、現実に、その場に身を置いてみると、「隣」からの視線では想像も付かないことが起こっている。歌舞伎役者の市川猿之助さんの事件もその一例だろう。これこそ「白昼の死角」ではないか。でも、人間の煩悩というやつはなかなか人の悪い性質で、幸せそうなひとが悲劇に遭うと、安心するのだ。「周りから見ると幸せそうだけど、やっぱり、幸せそうに見えて、不幸な人生を歩いていたんだ」と、同情しているような顔をして、その実、自分を慰めている。「他人の不幸はミツの味」なのだ。ほんとうは、「他人の不幸」に味はないはずだ。しかし、それを「ミツの味」に変えてしまうのは、煩悩なのだ。自分は、不幸とまでは言えないけれども、ああいう悲惨な目には遭っていないのだから、まだ幸せなほうなのだ、とか。まあ思うようには行かないけれども、いまの生活を喜ばなければならないのだと言って、自分を慰める。
それを「無仏のひと」という。つまり、それは自分が自分を慰めているだけで、そこには阿弥陀さんがどこにもおられない。だから「仏が無い」のだ。阿弥陀さんがいないのだから、自分で自分を慰めたり、言い聞かせるより、他に方法がない。阿弥陀さんは、その「自分」が「自分」を慰めると言ったとき、その間に割って入ってくる。「自分」→阿弥陀→「自分」となる。それを別な言い方で言えば、「自分」の考え方を問い返す、「反問性」を主人とすると言ってもよい。いままで「自分」を「自分」の主人として生きてきた者が、「反問性」を主人にすることだ。首をすげ替えるのだ。だから、宇野さんのように「死ぬことなど考えない」と言っていた考え方を、「それは〈ほんとう〉でしょうか?」と問い返すはたらきを主人にすることだ。さらに、「死」を分かってしまっている「自分」に対して、「それを〈ほんとう〉に知っているのでしょうか」と問い返すはたらきに蹂躙されることである。阿弥陀さんは、人類の「死観」を解体される名人だ。「阿弥陀さんの解体ショー」が、いま・ここで始まるのだ。
阿弥陀さんに解体されると、いままで「悲劇の主人公」だったものが、「人類の標本」とさせられる。「悲劇の主人公」がどこに住んでいるのか。それは、自分のこころの中だけだ。どこかにそんなひとが居るわけではない。だから、「自分は悲劇の主人公だ」と思ったひとが、「悲劇の主人公」の役を演じさせられるだけだ。その役から降りませんかと、阿弥陀さんはおっしゃる。そして、阿弥陀さんが脚本家となって、阿弥陀さんの設えた舞台の主人公として生きませんかと、お誘いを受ける。そして与えられた役が、「人類の標本」という役だ。この舞台の脚本家でもあり、演出家でもある阿弥陀さんの仰せのままに役者は演じる。そこにはもはや、「自分」というものはなくなる。と言うよりも、そもそも「自分」などというものはないのだ。「自分」という「思い」があるだけで、「自分」という実体がどこかにあるわけではない。脳の中のどこを探しても「自分」はいない。まあ常識で、「自分」と言えば、皮膚で包まれた内側のことを言うらしいが、阿弥陀さんはそれを許さない。内と思おうが、外にしようが、それ全体がお前だと訴えてくる。だから皮膚で包まれた内側も、それと接している外側も含めて、「お前だ」とおっしゃる。まさに〈一人一世界〉だ。
そしてフィジカルな面も、そしてメンタルの面も含めて、阿弥陀さんの演出されるままに演じていく。だから、どんな些細なことを思ったとしても、それは「自分」が考えたことではない。それは阿弥陀さんの演出なのだ。先日の日曜日のことだ。法事があって、本堂で大きな声で読経しているときのことだ。そのときふと、何でこんな大声で漢字の羅列を読むんだろう、と阿弥陀さんに思わされた。何の意味だあるんだろうか、とも続けざまに思わされた。さらに読経を続けていくと、「お前はお経が上手だなあ、何という美声の読経なんだ。ウットリするぞ」と聞こえてきた。それが恥ずかしいやら可笑しいやらで、思わず笑い声が漏れそうになった。
だが、そんなことが私の上で展開していることなど、聴衆である門徒のひとには、まったく分からないだろう。阿弥陀さんの演出は巧妙だから、周りのひとには、決して悟られないのだ。やはり、この世は、私と阿弥陀さんとの二人三脚で出来上がっているのだな。どんな些細なことをしようと、思おうと、感じようと、そのすべてが「人類の標本」としての役割なのだ。
「人類の標本」は、深海にある。その深海から海面に浮かび上がってくると、人間界の餌食となる。人間界は、「善悪」という二項対立の相対世界だ。それを戒めるために、親鸞は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』後序)とおっしゃる。これも親鸞が受けた「反問性」の言葉だろう。お前は、阿弥陀さんがご存じのように善や悪を知っているのか、知ってはいないだろう、知ってはいないのに、あたかもこれが善だとか、これが悪だとか分かった風な口を利いているが、それは傲慢なことではないのかと。