「弥陀成仏」という表現は、我々に対する阿弥陀さんからの挑戦状だと述べたことがある。「弥陀成仏」とは、阿弥陀さんが、まだ若かりし頃、法蔵と呼ばれる菩薩だった。法蔵菩薩は、この世において苦悩するものが一人でもあれば、私は仏と成って「阿弥陀」などのは名乗らないと誓った。すべてのものを救い尽くすことができたときに、初めて仏と呼ばれるのであって、未熟な私は仏と呼ばれるには相応しくないと。だから、法蔵は、苦悩するものが一人でもあれば、その一人を救おうと、一時も休むことなくはたらきづめにはたらいておられる。
これは菩薩から仏への、つまり誓願の上昇志向の物語として説かれる。ここまでは常識で理解できる。しかし、同時に、「弥陀成仏」ということが説かれてくる。それは、法蔵菩薩は、あらゆる苦悩する存在を救い尽くし、もう既に仏に成って「阿弥陀」と名乗っていると。それも昨日今日のことではなく、「十劫」の昔に仏に成っていると説かれる。これがなかなか納得できない。
法蔵菩薩が苦悩する存在を救い尽くしていると言われるのに、苦しんでいるものがまだたくさんあるし、他ならぬ私自身が救われていないではないか。そうであるのに、「弥陀成仏」というのは虚偽ではないか。なぜ阿弥陀さんは、「弥陀成仏」などと言えるのか。そう抗いたい気持ちになる。
この抗いたくなる気持ちに対する、阿弥陀さんからの挑戦状が、「弥陀成仏」ではないか。だから、「弥陀成仏」という言葉を聞いて、何とも感じないのはどうかしている。この言葉を聞いたら、「冗談じゃない!」と腹を立てなければならない。「冗談じゃない!」。まだまだたくさん救われていない人間がいる。それなのに「弥陀成仏」などと言ってもらっては困る。その発言を撤回してほしい。こういう感じ方が、まっとうな受け止めじゃないか。そこで、阿弥陀さんと自己とが、いのちがけの対決をしなければならない。この決闘の場が、「いま・ここ」だ。
しかし、阿弥陀さんは、我々に挑戦状を突き付けただけでは済まない。もう「弥陀成仏」なのだから、お前は救いの中にあるのだと強要してくる。もう救われているのだと。阿弥陀さんから見れば、私は救いの中にあるのだ。しかし、私の実感としては、まだ救われていない。この乖離が何を意味しているのだろうか。そう問うてみると、どうも阿弥陀さんの考える救いと、私が実感する救いとの意味が違うということだ。阿弥陀さんの救いは「無条件の救い」であり、私の実感する救いは、「条件付きの救い」ということだ。私から見れば、「阿弥陀さんの救い」は救いとは感じられない。「条件付きの救い」以外を救いとは感じられないから。「条件付きの救い」とは、現状を、人間の理想に近い形にするという「救い」だ。突き詰めれば、「死」を変更したいのだ。「救い」という意味の反対を「死」で代表させれば、「死」からの解放以外は「救い」ではないのだ。
だから、阿弥陀さんの救いなどを人間は要求していない。人間の欲しいのは「条件付きの救い」だけなのだ。その私に対して、阿弥陀さんは「弥陀成仏」を突き付ける。お前は、もう救いの中にあると言い続ける。この「無条件の救い」の強要は何なんだ。つまり、何も現状を変更することのない「救い」とは、私の眼から見れば、「そのまま」ということだ。何も変わっていない。「そのまま」が「救い」ということなのか。
そこで一気に変化が生じた。阿弥陀さんが「弥陀成仏」という、その時を「十劫」と言っているが、それを私は過去に設定していた。私が生まれる前、そしてそれ以前と、「過去」へ「過去」へとさかのぼり、そこに「十劫」を設定していた。ところが阿弥陀さんの言う「十劫」とは、その「過去」のことではないかも知れない。その「過去」が誕生してくる場所、つまり〈永遠〉のことなのかも知れない。〈永遠〉とは、人間の眼から見れば、「無時間」だ。「過去」と「未来」が消滅するようなものであり、また生み出されてくるようなものだ。これも人間の眼から見れば、「宇宙が始まる前」、そして「宇宙が終わった後」としか言えない。まあ小生が言ってきた「流れない時間」(共時的時間)のことだ。
これが「弥陀成仏」だとすると、我々の精神的な苦悩は、もう終わってしまいるのだ。
仏教は、苦を「三苦」と意味づける。「苦苦」「壊苦」「行苦」だ。「苦苦」とは、五官で感ずる身体的な苦であり、「壊苦」は、形あるものが壊れていくこころの苦しみ。「行苦」は、すべてが移ろいゆくことで起こるこころの苦しみだ。まあ身体的苦と精神的苦の二つに分けられる。身体的苦は、人間が肉体を持つ限り消すことはできない。ただ精神的苦は超えることができる。あらゆる苦悩が、もう終わっているというのは、精神的な苦のことだ。「四苦八苦」の中の精神的な苦とは、「求不得苦・愛別離苦・怨憎会苦」で代表される。それらが苦と感じられるのは、苦を底辺で操っているものがあるからだ。それを私は「利害損得心」と言っている。伝統的な言葉で言えば、「末那識」であり、「自力のこころ」である。苦を苦として感じる器官が、「末那識」なのだ。そうやって解明されてしまえば、苦は済んでしまう。いままで苦は向こうからやってくるものだと思っていたが、この「末那識」が生み出している幻想だったのだ。
私の存在は、その「弥陀成仏」から生み出されたものであり、またそこへと還っていくものでもある。この「生み出される」とか「還っていく」という言い方も譬喩だ。これも「末那識」の生み出す幻想だ。こうやって、人間が概念規定をしようとする作為そのものを解体してしまう。親鸞も「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(『歎異抄』後序)と言っているではないか。「善悪」とは、相対的な価値を代表する言葉だ。だから、人間が二つに分けて認識すること、そのことが〈真実〉から逸れていることを教えている。この逸れているという感覚が宝なのだ。〈真実〉から逸れることによってしか、人間は〈真実〉と関係を持つことができないからだ。
そうやって人間の「思い」を対象化し、それと距離を取ることができるようになって、初めて〈存在の零度〉へ還ることができる。生まれたての赤子は、おそらく「時間の観念」も「空間の観念」も「自我の観念」もないに等しいだろう。これは私も通ってきた道だが、すでに不可知のことだ。でもその赤子と七十前の爺さんが双子のような存在になる。それが可能になるのも、「弥陀成仏」という出来事の内部でのことなのだ。
「弥陀成仏」は、「もう済んだこと」でもあり、「まだ済んではいない」ことでもある。それは阿弥陀さんからの飽くなき挑戦状を突き付けられているからだ。つねに「いま・ここ・私」は、阿弥陀さんと対決の場である。