明恵と親鸞

「明恵の和歌と夢」(釈迦への信仰を読み解く)というテーマで、成蹊大学の平野多恵教授のお話を聞いた。全体的な印象は、いままで薄っぺらな「明恵観」しかなかったが、それが立体的になった感じがした。奇しくも親鸞と同い年の生まれだが、二人に面識はなく、同じような課題を背負った二人だが、歩んだ道はまったく違っていた。二人に共通の面は、ストイックなところで、決して自分に嘘がつけなかったところだろう。しかし、明恵は「閉じる」という志向性に生きられたし、親鸞も最初はその志向性だったが、やがて「閉じよう」とする志向性が、「開かれる」という形で解体されたひとだ。だから親鸞は明恵の生き方には同情しただろうと思われた。それは親鸞がくぐってきた道と同じだからだ。
 まあ誕生の年は同じでも、親鸞が九十歳まで生きられたのに対して、明恵は六十歳と、短いことにも関係しているのかも知れないが、それ以上に、明恵は阿弥陀さんではなく、「お釈迦様フェチ」だったからからだろう。お釈迦様に対して、「あまりに恋しく思ひまいらせ候へ」(『高山寺明恵上人行状』弟子喜海編)などと言っている。恐らく、明恵は、現実の、つまり「人間としての釈迦」はすでに死んでいることは知っていたが、明恵の思う釈迦は「人間釈迦」ではなかった。ユングの言葉を借りれば、「元型(アーキタイプ)」だったのかも知れない。現実には、釈迦は存在しないと知りつつも、それでも打ち消すことのできない釈迦への恋慕は、「元型としての釈迦」という無意識からの突き上げだったのだろう。だから自分でも、この突き上げに抗うことは難しかったのではないか。
 それほどまでに釈迦を恋慕させたものは、果たして何なのか。それは誰にも分からないのだろう。
 それはともかく、お釈迦様のおられる天竺に行きたいという思いが明恵の一生を貫いている。『大唐西域記』(玄奘)が愛読書だったそうだ。それで実際に天竺(インド)までの旅程表を綿密に計画し、一日何キロ歩けば、何日で天竺に到着するということまで割り出している。それで実際に天竺行きの計画を実行しようとするが、春日明神の託宣により断念している。春日明神は藤原家の守護神であり、明恵の出自である湯浅氏(和歌山県有田郡)は藤原秀郷の流れを汲む家筋であった。しかし、その思いは消えず、再び天竺行きを計画するも、今度は体調不良で再度断念している。
 明恵の恋慕の対象は、釈迦であり、彼は「大聖慈父釈迦牟尼如来」と呼びかけている。ところが、十九歳からは、「仏眼仏母尊像」を本尊として、「夢記」を書き始める。これもユング的な解釈をすれば、釈迦は父性の象徴だが、「仏眼仏母像」は母性の象徴である。父性を補うためには母なる「元型」が必要だったのではないか。これは、奇しくもキリスト教のプロテスタント派が「父なる神」を前面に立てるのに対して、カソリック派が「マリア像」を造形していったことと共鳴しているように思う。やはり、人類は父性と母性という両性によって、初めて自己の存在が安定することを示しているようだ。
 もっとも興味を引かれるところは、明恵の「耳切」である。彼は二十四歳(建久七年・1196)の時、京都から故郷に戻り、「白上の峯」に草庵を建てる。ここに籠もり、昼夜、修行に励んだ。『高山寺明恵上人行状』には、こうある。「昼夜朝暮にただ仏像に向かひて在世の昔を恋慕し、聖教に対して説法の古をうらやむ。」と。ひたむきに、そして誠実に仏前で修行に励む明恵の姿が彷彿とする。お釈迦様が生きておられた時代に生まれられなかったことの悲しみ、直に説法を聞くことのできなかった悲しみが、逆に釈迦を恋慕する思いを加速していった。
 そして、こう続いていく。「我等、如来の本意に背けることを思ひ続くれば、髪をそれる頭もそのしるしとするにたらず。法衣を着せる形もなをうらめしきかなや。この心をさへがたりによりて、いよいよ形をやつして人間を辞し、志を堅くして如来のあとを踏まむことを思ふ。然るに眼をくじらば聖教を見ざる歎きあり、鼻を切らば、すすはな垂りて聖教を汚さん。手を切らば印を結ばんに煩ひあらむ、耳は切るといふとも聞こへざるべきにあらず、然も形をやぶるにたよりあり。よりて大願を立てて志をかたくして、仏眼如来の御前にして耳をからげて仏壇の足に結びつけて、刀を取りて右耳を切る〈血走りて本尊ならびに仏具等にかかれり、その血、今に失せず〉。」と。
 正しく訳せないのだが、おそらくこんなことだろう。「私たちは釈迦如来の本当のお心に背いている。そのことを思い続ければ、頭髪は剃って、あたかも仏弟子のような姿をしているけれども、決して「真の仏弟子」の印とは言えない。そのうえ、法衣などを着ているのだから、恨めしい限りだ。この押さえ切れない思いにせき立てられると、人間という肉体をもっていることそのことが恨めしく、この肉体をなくし、仏を求める志だけを堅くして釈迦如来の思いに沿いたいと思う。その思いから、もし眼を潰せば、お経を見ることができなくなる。もし鼻を切り取ってしまえば、鼻汁が垂れてきてお経の本を汚してしまう。もし手を切り取ってしまえば、印を結ぶことができなくなる。しかし耳は切り取ってしまっても、聞こえないということはない。このように人間の肉体を失うことこそが頼みとできることなのだ。それで大いなる願いを立てて、仏眼仏母尊の前で、耳にひもを絡め、一方を仏壇の脚に縛りつけ、刀でもって右耳を切った。〈そうしたところ、血が噴き出して本尊と仏具などに掛かった。その血は今でも消えずに残っている。〉」
 「耳」を切るという行為は、日常の意識では、まず実行することの難しい行為だ。ある種の特殊な精神状態でなければ難しい。これは親鸞の「一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて雑毒・雑修の善と名づく。」(『教行信証』信巻)に共鳴する感情ではないか。「一切時」とは、二十四時間という意味だ。「二十四時間、煩悩が起こってくる。まさに自分の頭に四六時中、火が付き、それを必至になって消そうとするようなものだが、それはすべて毒の混じった善だった」という意味だ。
 この「急作急修して頭燃を灸うがごとく」という精神が明恵の精神状態と共鳴するように思う。まあ親鸞は、その後、その行為そのものが「毒の混じった善」だと覚めてしまった、とは述べているが。
 それはともかく、明恵は「強迫神経症」のような状態だったに違いない。それは親鸞も通った道であり、「強迫神経症」のような状態にならなければ、また〈真実〉には触れ得ないという仏道の常道でもある。
 明恵は、もはや釈尊のこころに触れ得ない苦しみ、焦燥感が極度にまで達し、自らの肉体を傷つけることによってのみ、幾ばくかの手応えを感じ取ろうとしたのだろう。それは肉体を傷つけることの見返りとして感じ取ろうとした「取り引き感情」ではなく、純粋な思いからほとばしり出た情動だ。だから明恵は、そのようにせざるを得なかったということが、本当のところだろう。
 明恵は、その文章に続けて、次のようなことを述べている。「其夜の夢に一人の梵僧が告げ。御房、如来を恋慕し奉りて仏の御為に身命をすて、耳を切り形をやぶりて如来を供養し奉り給ふ。我、この事を記し留め候也と云て、かくのごときこと記せられたるかと覚しき大なる双紙七八帖ばかり重ね置かれたりと見る。」と。
 耳を切った日の夜に夢を見たという。「梵僧」というのだからインドのお坊さんだろう。その「梵僧」が、「お前は釈迦如来を恋い焦がれて、仏の為にいのちを捨て、耳を切り取って如来を供養された。私はこのと事を確かに書き留めたぞ」と。だからこれは正夢だったのだと明恵は思ったのだろう。
 まあこれは「夢」なので、それを覚醒時の意識で解釈しても答えは出ないだろう。それを知りつつ、敢えて解釈してみれば、「耳切」は、釈迦如来への供養であり、そのことを「梵僧」に認可されたということだろう。つまり、「耳切」行為は間違いなく、釈迦へ通じる行為だったのだと、自分自身を納得させたのだろう。本当は耳や鼻だけでなく、身体そのものを捧げたいのだ。身体を残るところなく釈迦に捧げたいのだろう。でもそれはできない。自己の身体を傷つけることによって、叶わぬ思いを遂げようとすることを、現代では「自傷行為」と言う。「自傷行為」は、必ずしも「自殺行為」ではない。「自殺行為」をしてしまえば、「自傷行為」が無意味になってしまうからだろう。やはり、「自傷行為」は、自己の身体を傷つけることで、何らかの思いを遂げたいという、微かな願いが残っているように思う。
 以前、リストカット(手首を切る自傷行為)をしていたひとの話を読んだことがある。リストカットとは、カミソリ等で手首を傷つける行為だが、実際に手首を切っているときには痛みは感じないのだそうだ。しかし、切った手首から流れる血を見つめていたら、どこからともなくペットの犬がやって来て、その傷を舐めた。その途端に、「痛い!」と感じたというのだ。自分で自分の肉体を傷つけても痛みは感じないけれども、そこに他者が介入したとき、痛みとなって感受される。その他者とは他ならぬ「愛情関係」にある他者でなければならない。一人称では痛みを感じないが、そこに二人称が介在したとき、初めて「痛み」はやってくる。愛犬が傷を舐めたという行為に、そのひとは「愛情」を感じ取ったのだ。「愛情」抜きには、痛みは痛みとして成り立たないのかも知れない。明恵の場合も、この夢に出てきた「梵僧」が、そのペットの役割を果たしたのかも知れない。
 「梵僧」に「耳切」という行為が認められたということは、そこに「慈悲」を明恵が感じ取ったというではないか。「慈悲」を感じることによって、「耳切」行為が認められ、これが間違いなく釈迦へ通じる行為だと受け取ったのではないか。この「梵僧」の認可がなければ、「耳切」行為が、明恵の中では収まりが付かなかったのではないか、と思ってしまう。
 これは明恵の結論なのかどうかは分からないが、そうとでも思える逆説が述べられている。それは『却廃忘記』の言葉だ。「我は天竺などに生まれましかば、何事もせざらまし。只、五天竺処々の御遺跡巡礼して、心はゆかしては如来を見たてまつる心地して、学問行もよもせじと覚ゆ。」
 現代語にしてみよう。「もし私がインドに生まれていたら、何もしなかったのではないか。ただインドの所々にある仏跡を巡拝して、こころに如来を拝見した心地がして、修行も学問もしなかったのではないか」と述べている。実際に、天竺に行けなかったことがよかったと言っているようにも受け取れる表現だ。もし実際に、天竺に行けてしまったら、お釈迦様にあった気持ちになり、それに満足して停滞してしまい、学問も修行もしない怠惰な生活を送ってしまったのではないか。だから天竺に行けなかったことを喜んでいるふうにも見える。
 果たして明恵は、これをどういう気持ちで述べたのだろうか。二度も天竺行きを計画しては、決行できなかった悔しさの余り、愚痴を吐いたとも受け取れる。しかし、明恵は天竺に行けなかったことの喜びに気づいたのかも知れない。明恵は生涯、「修行のひと」だった。臨終の場面では、「我、戒を護る中より来たる」(『高山寺明恵上人行状』)とまで述べている。やはり、戒律を守り、修行をまじめに行うことこそが仏道の正しいあり方なのだと思い定めたひとだったのだろう。だから、いま、この場所で満足してはならないと思っていたのだろう。常に行じ常に戒を護り、仏道の真理を探究する、「現在進行形」の仏道が明恵の仏道だったようだ。
 明恵と親鸞は同年だと先に述べたが、そのひとが育った思想的背景こそが二人の分かれ道だったのではないか。明恵は「釈迦一尊教」であり、親鸞は「釈迦・弥陀二尊教」だ。「釈迦一尊教」は、どうしても発想の原点が、インド(天竺)になる。インドが本場であり中心に据えられる。しかし、「釈迦・弥陀二尊教」は、インドを相対化する。それは阿弥陀さんを立てたからだ。阿弥陀さんという絶対なる中心を立てることによって、インドを相対化し、「いま・ここ」と等価とする。簡単に言えば、もし仏法が普遍的な法則であるならば、インドだけに仏法があるわけでない。インドにあるものであれば、この日本にもなければならない。もしインドにだけあって、日本にないものであれば、それは普遍的な法則とは言えない。それを理解していた親鸞は、一度もインドへ行こうとはしなかった。
 明恵にも、「二尊教」を思わせるものがある。先に述べた「仏眼仏母尊」だ。ただそれは自己の思いの中にある仏であって、残念ながら「物語」がなかったのではないか。一方、阿弥陀さんには、「浄土経典群」という「物語」がある。あくまで、その「物語」の主人公として阿弥陀さんがあり、単体では扱われていない。まあ「浄土経典」も玉石混交なので、どのように読むかによっても違ってくる。親鸞は、「如来の本願を説きて、経の宗致とす」(『教行信証』教巻)という視点で見ている。つまり、「如来の本願」とは、この世で苦悩するものがすべて救われなければ、自分は仏とは成らないという法蔵菩薩が起こされた本願である。その本願が成就したとき阿弥陀仏と成るという「物語」が、お経の究極の意味だと見ている。これが「阿弥陀仏」という言葉の背景である。つまり、阿弥陀さんとは、完璧な仏ではないのだ。苦悩する者とは、まさに親鸞自身であり、私が救われなければ法蔵菩薩は菩薩のままであって仏には成れないのだ。だから、法蔵菩薩と親鸞一人の関係が、「いま・ここ」で問われることになる。
 「二尊教」は、釈迦を我々と同じ人間として相対化する。そして、「釈迦」を「教主(教えの主体)」とし、阿弥陀を「救主(救いの主体)」とする。だから、「釈迦一尊教」と「釈迦・弥陀二尊教」は、空間と時間の意味空間が異なっている。はたして「仏眼仏母尊」には、そのような「物語」があるのだろうか。おそらく「仏眼仏母尊」は、西洋一神教の神(God)と同様に、もうすでに「完成した仏さま」なのではないか。もし完成した絶対者であるのなら、力のある絶対者が弱者を救済するという救済形式になる。しかし、阿弥陀さんは、永遠に仏には成れない仏なのだ。なぜならば、この世のあらゆる存在が救済されなければ仏には成れないと誓った仏だからだ。その「最初の」というか、「最後の」というか、その一人が私自身なのである。この私自身が救われなければ、阿弥陀さんは法蔵菩薩のままであって、仏には成れない仏なのだ。こういう「物語」から生まれた仏が、阿弥陀さんである。
 明恵には、「仏眼仏母尊」以外にも、「弥勒信仰」もあったとお聞きしたが、その場合にも、いかなる「物語」を背景として信仰していたのか、それが明恵の信仰のスタイルを決定していたのだと思われる。
 以上、明恵上人についてのお話をお聞きしていて、思うところを述べた。しかしまだ残っている問題がある。それは、「夢」だ。明恵には、膨大な「夢記」があり、親鸞にも「三夢記」がある。両者ともに、「夢」によって自分の人生を照らした人間であることは間違いない。また浄土教徒にとっては、法然批判の書である『摧邪輪』を忘れることはできない。このことについても考えていきたいと思っている。