生きることのできる「物語」

 哲学は、「物語」の限界を超えようとしたことから起こってきた。その場合の「物語」とは、いわゆる、西洋一神教の「物語」を意味している。この「物語」は同じ民族同士であれば妥当性があるが、インターナショナルには妥当しないだろうと。だからインターナショナルに耐えうる「概念」というものを使って真理を明らかにしようとしてきた。
 しかし、やり方によっては、民族を超えて、インターナショナルにまで「物語」を拡張できるのではないか。そこまで広げてしまえば、普遍妥当性に耐えうるのではないかとも思われるが、いやいや、そういうものでもないだろう。「物語」に書かれていることが、そのまま真実だと受け入れられなければ、「物語」を信じたことにはならないと言われてしまえば、ちょっと待ってくれと言いたくなる。
 我々、〈真・宗〉門徒が考える「物語」とは、現実の物事に対する解釈ではなく、現実をメタファーとして理解するための教材といった扱いだ。それを考えるには、ユングが、「イメージは明確ではないが生命力に溢れている。概念は明確だが生命力に欠けている」と言ったことがヒントになりそうだ。「概念」を「哲学」という言葉に置き換えて、「イメージ」を「物語」に置き換えたらどうだろうか。どうしても「哲学」は知の範囲内に留まるように思える。それに比べて「物語」は、知をも支えている全存在に響くのではないか。
 これは我々が「物語的存在」だということに関係しているからではないか。自分という自我が目覚めてから、人間は自己を中心にして世界を把握する。自我の遠近法によって身近な人間、身近な環境、そこから徐々に遠くに人間と事物を配置して世界という「物語」を把握する。安倍晋三元首相を銃殺した山上徹也容疑者も、自分の人生を「物語」として理解し、凶行に出たと思われる。ヘレンケラーも、「W・A・T・E・R」という手話を通して言語を学ぶことによって世界を手に入れたと言う。言葉は、単語だけで成り立たない。言語の網の目、つまり関係性が出来上がって、初めて世界を意味空間として理解する。言語のコードを理解することが、世界という「物語」を手に入れる契機となるのだ。
 人間が「物語的存在」だから、やはり「物語」を利用することによって、知的理解を超えた全人的自覚が成り立つのではないか。
 まあ明治生まれの曽我量深も、浄土教の「法蔵神話」を、最初は現実解釈として、つまり、どこかに存在する菩薩像として理解していたようだ。これは「哲学」が「物語ではダメなんだ」と言ったことに相当する。現実の人物像として法蔵菩薩を考えれば、これはstoryでしかなくなる。これを信じろと言われれば、信仰ではなくなる。曽我は、この浄土教の問題を唯識思想を学ぶことによって、「非神話化」した。それが「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」という発見だ。いままで自分とは別のものとして考えていた存在を、実は自分の阿頼耶識、つまり、無意識だと内在化させたのだ。内在化させるとは、他ならぬ自己自身の身体化させたことだ。
 ここで「身体化」と言ったが、この「身体」ということも、普通は自己自身に内在化させて考えているが、唯識は外在化させる。つまり、「身体」は自己の身体であるけれども、それは自己の所有物ではなく、自分の思いを超えた関係性(縁)で、仮に出来上がっているものと受け取る。だから、「身体」は内在ではなく、外在なのだ。
 法蔵菩薩は、どこまでも、あやゆる苦悩する存在を救おうと、一方的に愛し続けている「誓願」として「物語」は語る。もともと、菩薩という存在は、必ず誓願を起こす存在であると仏典は説く。菩薩は誓願を起こし、この誓願の目的が達成されたときに、初めて「仏」という位相に成ると説く。だから、この「身体」は救いを求める身体である。
 ところが、我々には「生老病死」という「四苦八苦」が必然する。つまり、身体である限り、苦しみから逃れることができない。そのことも見越して法蔵は誓願を起こしている。苦悩を取り除くことで救いを実現したいのだが、もはやそんなことを待ってる時間の余裕がない。菩薩は、たったいま救いを実現しなければならないからだ。それが「群生を荷負して重坦とす」(『仏説無量寿経』)という表現だ。群生とは、四苦八苦するもののことだが、それを自分自身と同化して、片時も忘れないというのだ。
 つまり、法蔵菩薩は、私の身体として同化して、ともに四苦八苦を受けるという。この苦しみは、自分が受ける苦しみであっても、本当は法蔵菩薩の涙であると受け取る。この苦しみを消滅させることのできない、「誓願」の涙である。法蔵菩薩の誓願は、人間に何も要求しない。どこまでも一方的な片思いだ。この一方的な片思いを人間は、「かたじけない」と受け取るしかない。愛が一方的であることが、人間に「かたじけなさ」という感情を生む。もし、「あなただけのために愛を注いでいる」と言われたならば、愛されるほうは、それを重荷と感じてしまう。だから、あなたのために愛しているのではない。法蔵菩薩は、自分自身のために、自分に誓っているだけなのだ。これが完璧な愛の形だろう。こちらに、まったく、何も要求しないから、逆にその愛に「かたじけなさ」を感じるのだ。