「明日」を信じない宗教

〈真・宗〉は「明日」を信じない宗教だった。いまさらながら、これは天地がひっくり返るくらいの驚きではないか。
 人間の社会は、必ず「明日」を信じて作り上げられているからだ。東京の丸の内では、高層ビルの解体と再建が進んでいる。「解体キングダム」という番組があるくらいだから、やはり、「解体」が現代のトレンドなんだろう。狭い日本は、土地がないから、「スクラップ・アンド・ビルド」しかないのだろう。いつのまにかビルが解体され、もとあった場所に新たなビルが建つ。新しいビルが建ってみると、いままでどんなビルがそこに建っていたのかすら、まったく記憶にない。いずれにしても、我々は自分の見ている景色などに、あまり関心はないのだ。
 「建築」というものも、「明日」を信じて成り立つ世界だ。「明日」の完成を目指して、「今日」の作業をする。キリスト教も、「最後の審判」で天国行きか、地獄行きかが決まるので、その「明日」のために「今日」を生きようとする。「今日」よりは「明日」のほうが、何事かがましになっていると思いたいのが人情だ。しかし、親鸞の世界では、それは「第19願」的信仰だと批判される。
 親鸞の言いたいことは、「第18願」だ。「第18願」とは、「明日」を信じない、「明日」を当てにしない信仰だ。これは人間の発想には馴染まない。むしろ人間の発想を解体する。すべては「もう済んでいる」と。
 この「済んでいる」ということを考えるについて、哲学者・中島義道の「われわれは「過去」しか知らない」という話が面白い。
「あと三〇分でこの仕事を切り上げ、それからXと会い二時間くらいで用件を済まし、そのあとでYと飲み‥‥といった「予定表的時間」が、日常的時間理解の核心に位置するものですが、それは未来完了的時間理解であること、つまり、現在や未来の出来事ですら一旦過去化してとらえなおしていることにお気づきのことでしょう。
 かくして、時間一般を理解するとき、とりわけ直観するとき、われわれは現在・過去・未来のうちで「過去」のあり方だけに着目し、それを不当に普遍化しているのです。(略)では、なぜ現在や未来ではなく過去に時間一般のあり方を統一しようとするのでしょうか。この問いには簡単に答えられます。実際のところわれわれは過去しか知らないからです。」(『「時間」を哲学する』講談社現代新書)
 我々は「未来」について考えるときにも、「過去」の出来事を当てはめて考えているに過ぎない。だから、私が、「人間は〈いま〉しか生きることができない」と言おうと、それは厳密に言えば「過去」のことなのだ。
私は、「過去」のことを悔やんでいるのも〈いま〉だし、「未来」に不安や希望を持っているのも〈いま〉だとは言うけれども、厳密に言えば、「そのように〈いま〉考えた」と過去形で語るしか、〈いま〉を語ることができないのだ。
 この間、名古屋から関西本線に乗って桑名に向かった。そのとき普通は進行方向に向かって座席が並んでいるのだけれども、この電車は、もちろん前向きの座席もあったが、後ろ向きのもあった。前向きに座りたかったが、空席があまりなかったので、仕方なく後ろ向きの座席に座った。すると、電車が出発すると、電車は私の背中の方向に向かって走っていった。景色がどんどん後退して遠ざかっていく。変な感覚だが、これが我々の生きるという基本形なのかも知れないと思った。つまり、我々は「未来」に顔を向けて生きているように思うが、本当は後ろ向きになって、「過去」に向けて生きているのではないかと。新たに目に飛び込んでくる事物は、「過去化」されることによって初めて認識することができる。だから、決して背中のほうを見ることはできない。いわゆる「未来」とは人間が認識することも、待望することも、悲観することも、楽観することもできない何事か、なのではないか。
 まあそれで曽我量深先生は、「純粋未来」という言葉を発明されたのだろう。人間には決して認識することのできない時間のことを、何とか表現したかったのだろう。でも、それは人間の「客観的時間」という観念は幻想だと
暴くことになるのだ。それでも曽我先生は、「純粋」という形容詞を付けたのだから、「未来」を明るいものとイメージしたのではないか。まあ、本当のところは明るいわけでも、暗いわけでもない。
 それはともかく、〈いま〉にすべてがある。まあ〈いま〉と言っても過去化された〈いま〉だが。親鸞の信仰は、「本願成就」から出発するものだから、「もう済んだ」ということにすべてがある。しかし、その「もう済んだ」は、決して済むことのない「もう済んだ」なのだから、訳が分からなくなる。
 親鸞は「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(『浄土和讃』)と詠う。「弥陀成仏」とは、すべての存在が救われた状態を意味している。つまり、「もう済んだ」状態だ。それを確認しているときが、「いまに十劫をへたまえり」だ。〈いま〉という基点がなければ、「十劫」という時間を計ることができない。つまり、これは〈いま〉から「十劫」の時間を計っているわけではなく、〈いま〉と「十劫」が同時に成り立ったことを確認している和讃だ。〈いま〉、「弥陀成仏」という「もう済んだ」状態を確認している。その状態が「十劫」という「過去」に成り立っていたことに、〈いま〉目が覚めたということだろう。この「過去」は一時間前だろうが、一万年前だろうが同じ「過去」に違いない。つまり、〈いま〉の内容なのだ。〈いま〉の内容が「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」なのだ。譬喩的に言えば、宇宙開闢以前の〈いま〉と、宇宙消滅以後の〈いま〉とが、〈いま〉ここに出現しているということだろう。
 このように考えると、この〈いま〉は、「もう済んだと思ったが、まだ始まっていない」〈いま〉とも言いうるのだ。これは「未来志向」を意味してはいない。単なる「未来志向」なら「第19願」だ。そうではなく、「もう済んだ」ところを、つまり「弥陀成仏」を目指す〈いま〉である。「もう済んだ」状態から始まって、「もう済んだ」状態を目指す運動である。
 親鸞が、「往相」・「還相」という円環運動として考えたのも、その辺をイメージしたからではないか。「往く」ということは、「還る」ことであり、「還る」ことこそ「往く」ことなのだと。しかし、それは決して停滞しない運動である。我々人間は、動物だから、必ずどこかが動いている。運動し続けている。その運動の主体が、「自分」という観念ではないと思っている。それは阿弥陀さんであり、本願であると。だから、ナンマンダブツと発語することも、阿弥陀さんの促しであって「他力」だと受け取っている。
 目にするもの、耳にするもの、これらは自分がこの世において初めて出会う奇跡であるというのが、「弥陀成仏」だ。しかし、人間はそれらをすべて「概念化」し「過去化」して停滞させて固定化させてしまう。それを常に揺り動かし解体していくのが阿弥陀さんだ。
 ここまでいろいろと書いてきたが、やはり「時間とは何だろう?」と、最初の問いに立ち戻るしかない。「いま・ここ・私」が未知なることであるのだから。
 「いま・ここ・私」をすべて明け渡すように仕向けるもの、それだけが信頼できる。