「すること」と「しないこと」の理由付けに、宗教的権威を利用しようとする欲望がある。たとえば、「親鸞がこう言ってるから、自分はこうしないのだ」とか。あるいは逆に、「親鸞がこう言っているから、自分はこうするのだ」とか。あるいは「阿弥陀さんがこう言われているから、自分はこうするのだ」とか。
そうやって、自分のしたこと、あるいはしないことの理由付けに宗教的権威を利用するのは間違っているのではないか。もしその結果がよければよいが、悪ければ、それらの責任を宗教的権威に押しつけることになる。自分の内発的なものからの促しでそうしたということだけが、本当で、その他の理由付けは分別ではないか。
例の「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13条)という親鸞の言葉の深みが、いまさらながら思われる。我々は、自分がどうするかという判断を迫られたとき、ついつい「前例」を知ろうとする。他のひとは、この問題に対してどう対処したか。まあそれはそれでよいとしても、他者の「前例」を自分に当てはめて、事を済ませようとする。そこに、どこかで自分の分からなさに蓋をしてしまっているように感じる。
この「さるべき業縁」とは、自分がそう思ったことの深淵は、自分にもよく分からないほどの深さからやってきたのだという驚きがある。その驚きを見て見ぬふりをしてしまったら、どこかで間違う。自分の過去を振り返れば、とても恥ずかしくてひとには言えないことがたくさんある。それを見て、「そうしたのは仕方なかったのだ」とか「みんなやってることじゃないか」と自分で自分に言い訳することがある。つまり、自分の過去を、自分であれこれといじくる。しかし、そう思ったこと、そうしてしまったことの深淵は、自分にも分からないほどに深いのだ。だから、そう思ったこと、そうしてしまったことは、〈一切衆生人〉の深淵から吹き上がってきたことだと、あらためて驚嘆するべきた。自分が思ったのではないのだ。自分は思わされて思っていたのだ。
イエスは、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5-48)と無理難題を言っている。もしそれを人間に要求し、それを人間が担おうとしたら、人間の肩は砕けてしまう。だから、阿弥陀さんは人間には何も要求しない。本来、人間の担えるような課題ではないから。