「猫がくわにゃよいが」

庄松の「猫がくわにゃよいが」を綿密に考えてみる。彼は、本堂で法話を聞いているとき、その講師の話の内容に耳を傾けていただろう。しかし、人間は長時間、ひとの話を真剣に聞くことはできない。だから、いわゆる「こころここにあらず」という状態になる。その時、庄松の頭に浮かんだものが、夕方に食べようと思って、朝、炊いておいたオジヤ(雑炊)だ。それをそのままにしておいたのでは、野良猫が家に入ってきて、それをコッソリ食べられてしまうのではないかと不安になった。そう思ったら、早く家に帰って、猫に食べられないように始末をつけなければならない。焦る気持ちが沸いてきた。それなのに、講師の話が長い。本当は、いますぐここを立ち去って、家に走ってでも帰りたい。いつになったら話が終わるのだと、イライラしている。それが庄松の「いま・ここ・私」の上に起こってきた、偽らざるこころの事実だった。
 ところが、同行さんたちは、庄松がいかにも法義の篤いひとだから、さぞや「有り難い」解説をしてくれるだろうと予想して問うたのだ。「講師の話が難しいから、庄松さん、ちょっと解説してくれよ」と。それに対して、庄松は、とどのつまり、「猫がくわにゃよいが」と応答した。同行さんは、そんなのは法義でも何でもない、ただの戯れ言じゃないかと思った。そんなことは誰でも感じることで、別に庄松さんじゃなくてもよいと。庄松さんは、妙好人なんだから、もっとましな話をしてくれないと困ると思った。
 しかし、庄松にとって、「猫がくわにゃよいが」という思いは、自分が思おうとして思ったことではない。この「思い」は自分の自由に思ったことではなく、阿弥陀さんのご催促だと受け止めているのだ。だから、庄松に言わせれば、「これこそが有り難い仏法ではないか」ということになる。まあ、この話の最後には、この「最後には」が問題だが、同行さんが、その生々しい仏法を感じ取り、「大いにはじいりたり」と結ばれている。この「最後には」は、言いかえれば、「アッという間に」かも知れない。
 実に他愛のない戯れ言として、捨ててしまってもよいような愚痴にひかりが当たっている。庄松のこころに起こる、どのような表象(煩悩)も、微細に見れば、自分の自由意志を超えて展開している。まあ、「自由意志を超えて」と、そのことを受け取れるかどうかが問題だ。どんなにちっぽけな「思い」も、それを思っているときには、思っているということには無自覚だ。「思い」が沸き起こって、それが自分に「思っていた」と自覚されるまでには、時間的誤差が生じる。その誤差に自覚的であるかどうか。そうなるとやはり、我々は「思わされて思っている」ということのほうが、〈真実〉に近いのではないか。庄松は、その誤差に、自分を超えた仏法を見出している。
 周りの景色を見れば、視覚から入ってくる情報に、我々は右往左往させられる。トイレットペーパーがなくなりかければ、それを購入しに出かけなければならない。新聞で変形性膝関節症に効くと謳われているサプリメントがあれば、ついつい購入せざるを得ない。近所から救急車のサイレンが聞こえてくれば、事故か病人か、知り合いかどうか、そんな情報の嵐に引きずり回されて一日が終わる。我々は身体の内側からも、また外側からも、せき立てられているのではないか。
 物事を微細に見つめると、そういうことが分かる。しかし、一方で、それら微細なこと全体をどのように受け取るかという欲求も我々にはある。つまり、ほんのチラッと思うような「思い」も、それらをトータルに意味づける視点が要求される。その時に「物語」が必要になる。まあ、庄松の場合も、そのことを阿弥陀さんのご催促と受け取られていたのだろうから、やはり、「阿弥陀さんの救済物語」の中の出来事なのだ。もう「阿弥陀さん」という言葉を使っただけで、それは「物語」の内部の出来事として成り立ってしまう。
 「いま・ここ・私」を「物語」として受け取るためには、この「現実」と言われるものを、一度、「幻想」だと見破らなければならない。譬喩的に言えば、「事物」と「意味」とを分離することだ。我々は五官を通して世界を受け取っている。人間は「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」というインターフェースからしか世界を受け取れない。しかし、それらの刺激を統合しているものがある。それが「意識」と言われる。五官は純粋だが、「意識」は、そこから得られた情報を、「意識」の受け取りやすいように捏造する。
 「事物」には、本来、名前がない。ただ、ないと「意識」は困るので、「意識」はそれに命名する。命名するとこによって、それを「意味」として捏造し所有する。だから命名されたものは、人間が、人間の都合によって仮に名づけられたものに過ぎない。考えて見れば、「事物」には本当の名前はない。どこまでも人間が理解しやすいように、人間的に命名し、「意識」の内部に所有する。大人になれば、ずいぶんと所有量が増える。その所有量は自己の内部に蓄積されているのだが、それを外側の「世界」に当てはめようとする。そして自分なりの世界観というものを造っていく。だから、世界は人間が命名し捏造した「意味」なのだ。
 だから人間は、現実を見ているのではなく、人間的に変形させられた「意味」を見ているのだ。本当の現実など人間には見ることができないのだ。この「見ることができない」ということも、自分が自分に言い聞かせたら絶望しかない。これを阿弥陀さんから聞かなければダメなのだ。人間の外部から聞かなければならないのだ。