再度「善いことも悪いことも 阿弥陀さんのせい」について

 この表現に苛つき、腹を立てているのは、「意識」ではないか。「意識」は制御することのできない自己の内なる無意識からの突き上げを、恨めしく思い、それに苛ついているだ。「意識」はロゴスだ。ロゴスは、秩序がお好みだ。ロゴスは、「概念・意味・論理」や「言語・理性」という意味を表すが、「実体化されて世界を支配する理法」という、実に興味深い意味もあるという。(『広辞苑』第七版)
 ロゴス(logos)と同根の言葉に、「katalog.analogy.analog.ideology.logical」などがあるそうだ。つまり、ロゴスは、順序立ててあること、順番通りに物事が並んでいること、規律や秩序が保たれていること、それらを網羅する言葉なのだ。
 ロゴスという言葉から、私は「軍隊」という組織を連想した。「軍隊」ほど規律と秩序が保たれているところはない。命令を下す指揮官は「頭脳」であり、その命令に従って動くのが「手足」である兵隊だ。だから指揮官の命令に対してどれほど理不尽だと思っても、兵隊はそれに逆らってはならない。ここにはヒエラルキー(階層性)が保たれていて、上部の者からの命令に下部の者は絶対服従しなければならない。だから下部の者は、必ず上部へ昇進することを望む。上部へ行けば、自分が「頭脳」となり、自由に「手足」を動かすことができるからだ。
 ただし、下部の者にはただ一つの安逸が与えられている。それは自分がどのように行為すればよいかという迷いからの解放である。兵隊は「手足」なのだから、「頭脳」からやってくる命令に従っていればよいのだ。確かに上部から突き付けられる命令に下部の者は不満があろうとも、それはその命令に従うか従わないかの選択はあっても、どのように行為したらよいかということに対する迷いからは救われている。
 人間が形成する「組織」(共同幻想)には、大なり小なりの決まりが存在する。組織が力を発揮するのは、「頭脳」と「手足」が結束され、まさに一体となって動くときである。あたかも、大空を埋め尽くす渡り鳥がひとつの生き物のように見えるとき、大海原を泳ぐ何万というイワシが一つの生き物のように見えるとき、私はそれを感じる。まるで何万匹のイワシが塊のようになり、一つの身体をもっているかのごとくに泳ぐ姿は圧巻だ。ただし人間の作る組織と異なっている点は、一つある。それは「頭脳」がないことだ。だれか一匹が命令して、それに全員が従っているわけではない。誰が命令するわけでもなく、瞬時に全員が右へ、また左へと方向を変えている。これが人間の理想とする「組織」の最終形態なのだろうけれども、それを人間が実現することは、まず不可能なことだろう。
 話を軍隊に戻すと、かつて軍隊の中ですぐれた上官と評されたひとが退役した後、これから何をしたらよいか迷ってしまったという話を聞いたことがある。つまり、上官と言えども、さらにその上部があり、その命令に従っていればよかったのだが、家に戻れば、誰も命令してくれる上官がいないのだから、どのように行為すればよいか不安になり立ち止まってしまったというのだ。軍人には決められたことを、如何に上手く、迅速にこなせるかという能力だけが要求される。だから、自分が判断してはいけないのだし、判断すること自体を抹殺させられる。
 河合隼雄先生も、「有能な兵隊」の話を書かれていた。軍隊では、鬼軍曹と言われていたひとが、家庭では、子どもの言いなりになり、要求するものなら何でもホイホイと買い与えていたというのだ。こんなことがなぜ起こるのかと観察されて分かったことがあったという。そこには子どもがお父さんに、欲しいものをねだるときの殺し文句があるという。それは、「お父さん、このオモチャはクラスのみんなが持っているんだよ。僕だけだよ持っていないのは!だから、買ってよ」という要求だ。これを聞いたお父さんは、「みんなが持っているんなら仕方ないな。お前だけ持っていないのは可哀想だ。」そう言って、何でも買い与えたというのだ。
 日本人である私も、そう要求されたら、その要求を退けることができるだろうかと、怪しくなってきた。河合先生は、たとえ周りの人間が持っていたとしても、それがその子にとって、本当に相応しいものかを吟味することが大切だと言われていた。吟味とは、親自身がそのことに立ち止まり考えるということだ。でも、本当のところは判断が付きにくいと思う。しかし、そこで敢えて立ち止まって、その分からなさに留まる。そこから、買うか買わないかを判断するということになろう。
 この「みんなが‥‥」という発想をどこまでも突き詰めていけば、戦争を支える倫理にもなっていたのだから。しかし、みんなと違っていることはよくないことで、みんなと一緒にできることに価値を置いてきた「日本人」にとって、そこで踏みとどまり「個人」に帰ることは難しい。またそのような訓練を受けてきた「西洋人」と、受けてこなかった「日本人」の違いが歴然とする。「個人」の慣性を尊重することは、「同調圧力」の中で、ますます難しくなりつつある。「日本人」が「個人」を尊重すると言ったとき、傾斜しやすいのは「自分勝手」である。「西洋」での個人主義は、そんなものではない。公共というものと如何に折り合いをつけて「個人」を尊重するかということを鍛錬してきたのが西洋文明だろう。考えてみると、親鸞は「個人」を徹底的に大事にしたひとだ。親鸞が法然の道場にいたころ、「仕掛けた問答」は、すべて親鸞自身が発題者だ。みんながどのように考えているのかはともかくとして、このこと一つを明らかにしなければならないと切迫感すら感じる問答だ。これが「如是我聞」という言葉を生むような仏法のタマシイなのだ。
 話がだいぶ逸れてしまったので、最初の問題に立ち戻ろう。
 「意識」は無秩序を怖れるのだ。しかし、我々のこころは「無意識」に支えられているので、そこからの無理難題に対応しなければならない。この「無意識」という仮説を最初に立てたのが、フロイトだ。彼は精神科医として、臨床の場面から考えていった。だから彼は学者であるまえに臨床医であることが、説得力を持つ。実際に神経症患者を前に、人間には「意識」と同時に「無意識」という領域があるのではないかと考えた。
 まあこれは仏教でも、二千年以上前の瑜伽唯識学徒が考えてきた領域だから、フロイト以前にある問題領域だ。それはともかく、「意識」にとって「無意識」はトリックスターとして現れると言われる。トリックスターとは「①詐欺師。ペテン師。②神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化の役割を担うような存在」(『広辞苑』第七版)だ。だから「意識」にとってトリックスターは困りものである。藪から棒に、何をしでかすか分からない。しかし、これが「無意識」という領域の深みであり、面白さでもある。「意識」が造っていた秩序を乱し混乱させる。でも、それはカルティベート、つまり、「耕し」であり、秩序によって固定化していたものを鍬や鋤で掘り起こし、新たな秩序を生み出すはたらきでもある。この両面を兼ね備えたものがトリックスターだ。
 「無意識」の領域に、「意識』はそのままで踏み込むことができない。必ず混乱させられる。昨日が明日で、明日が昨日。ここがあそこで、あそこがここ。私が貴方で、貴方が私だ。「意識」の世界ではほとんど無意味に思えることが、「無意識界」だ。
 「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」という表現は、まさに「無意識界」に住んでいる言葉だ。「すべてが阿弥陀さんのせい」ということは、「自分」という思いも、「意識」もすべてが阿弥陀さんの促しということになる。つまり、「自分」という思いはあっても、「自分」という実体はどこにもないということだ。もっと突き詰めた言い方をすれば、「自分」という実体も解体され、阿弥陀さんに成ってしまったのだ。阿弥陀さんによって、「自分」と思わされているだけで、「自分」という実体がどこかにあるわけではない。
 フロイトならば、それを「リビドー」というのかもしれない。すべてを生みだし作り出す根源的欲動だ。「無意識界」から吹き上げられた「意識」が、辛うじて動いている。次の瞬間に、何を思い、何を行為するかは、「私」には知らされていない。ただ「意識」は、「無意識」の片鱗を感じ取ることができるだけだ。すべては「阿弥陀さんのせい」で営まれている。親鸞は、そんなものをイメージして「自然法爾」という言葉を思いついたのかも知れない。彼は、「行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う」(『末燈鈔』)と述べている。「行者」にとっては、それが善いことなのか悪いことなのか、本当のところは分からないのだと言う。
 また『歎異抄』では、「聖人のおおせ」として、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど」とも語られている。「意識」の世界では当然、善悪は知っている。しかし、「如来の御こころ」である「絶対」という視座を取ったとき、人間には本当の善悪は分からないと言っている。これも「無意識界」のことを語っているのだろう。
 ただし、「意識」と「無意識」との関係を、そのように知ることができれば、「意識」と「無意識」の棲み分けが安定的に成り立つ。どのようなことを思おうと、どのような行為をしようと、それは「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)と受け止められる。これはいま・ここ・私の上に起こっていることを、そのように受け止めたという存在了解である。この「さるべき業縁」とはどこから起こってきたのかといえば、それは「弥陀成仏のこのかた」(『浄土和讃』)からである。時間的に言えば、何億年という生命の歴史を貫いて、いま・ここ・私の上に展開していることだ。だから、ほんの少しの、チラッと思った思いつきにも、何億年という背景がある。この「業縁」の噴火口が自分自身であった。「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」で、いま・ここ・私が成り立っていた。私とは、その意味で「阿弥陀さん」そのものだったのだ。私とは本来、無我のものだった。この私を生かしているものは、まさに不可思議そのものである。