「善いことも悪いことも 阿弥陀さんのせい」に腹が立つ

 昨夜は、「浄土真宗Live」という名称の法話配信の日だった。法話は中野区の寺院からの配信で、スタッフが六人ほど関わっておられた。十九時半からの配信で、質疑も含めて二十一時半頃終了した。その後反省会があり、帰りの電車は最終電車になった。
 相変わらず、何を話しているのか自分でもよく分からない話だった。法話は、まさに生々しい「一期一会」の時空間だから、待ったなしに、そのとき無意識から浮上してきた言語が飛び出してくる。これは闇夜の打ち上げ花火だ。私は、人間を相手にして話しているようだが、話の目指す焦点はそこにない。話の焦点は、人間を透過して阿弥陀さんに向かっている。だから、「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」などという「危険な」言葉も吹き出してくる。この言葉は深海生物のようなもので、深海でのみ生き生きと生きている言葉だ。それを一気に海面に浮上させて、言葉として凝固させると、この言葉は死んでしまう危険性を持っている。また海面では、「自己責任」とかいう怪獣のような言葉が徘徊しているから、深海生物はあっという間に食われてしまう。
 この「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」という言葉を切っ掛けにして、こんな言葉を聞いている聴衆が腹を立てることはないのかと尋ねられた。つまり、「善いことも悪いことも すべてが阿弥陀さんのせい」ならば、何をやってもよいという無秩序な世界が生まれてしまうではないか、そんな馬鹿なことがあるのか、〈真・宗〉は無責任な人間を生み出す教えなのかと、腹を立てるのではないかというのだろう。
 そういう反応も分からないではない。いわゆる真宗で言うところの「造悪無礙」の表現ではないかという批判だ。「造悪無礙」とは、悪いことをしても阿弥陀さんは許す。むしろ悪人を救うのが阿弥陀さんなのだから、悪事をたくさん犯したほうが、阿弥陀さんに気に入られるのだという発想だ。
 私は、何も「造悪無礙」という文脈で語ったわけではない。ただ自分が自分を丸ごと引き受けるためには、この言葉が不可欠だと気付いただけだ。これも以前書いたことだが、私は、相田みつおさんの「いいことはおかげさま わるいことは身から出たさび」が宗教倫理の最終形態だと思っていた。ところがこの「身から出たさび」の部分に違和感を感じ始めた。これは「どのような不都合なことが起こってきても、それはすべて自分自身に問題がある」と考える発想から生まれる。これは誠実なように見えるのだが、自罰的な「慚愧」に行き着くように感じた。やはり、突き詰めれば、自分が悪いのだと、自分にところにすべての罪の原因を求め、自分で自分を罰していくことになる。この「慚愧」の地獄から脱するためには、「善いことも悪いことも、すべて阿弥陀さんのせい」が必要だったのだ。
 『歎異抄』第十三条でいえば、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」が、それと同じ文脈にある。「そのように考えるような、あるいはそのようなことをするような必然性が来たならば、たとえ自分が思ってもみなかったことであっても、そのように思い、またそのように行為してしまうものなのだ」という意味だろう。思いや行為は、自分の自由意志で起こせるものではなく、どこまでも逃れざる必然性から起こってくるものなのだ。だからたとえそれがこの世では、「悪」と判断されるようなことであったとしても、自分はそれをおこなってしまうものなのだ。自分では自分を自由にコントロールすることができない。究極は、阿弥陀さんの促しによって、すべてを思い、行為しているものなのだ。だから、たとえそれがこの世で「悪」と判断されようと、また「善」と判断されようと、それはすべて阿弥陀さんの促しから来たものなのだから、阿弥陀さんが為されたことなのだ。
 問題は、行為が起こる原初、思いが起こる原初の始発点を「自分」と見るか、「阿弥陀さん」と見るかだ。私は「阿弥陀さん」と受け取るので、すべては阿弥陀さんの為されるように自分はしているのだと思っている。表層の自分の思いとしては、「自分が思い、自分が行為している」とは思っているのだ。しかし、それは「幻想」である。〈真実〉は、「宿業因縁」の為せるワザであり、「絶対受動」の「他力」である。
 「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」という表現に違和感を感じるひとは、自分という存在をどのように受け止めているのだろうか。この表現を目の前にしたとき、「悪いことをする人間」を自分以外のひとと見ているのではなかろうか。「こんなことを言ったら、悪いことをする人間を許すことになり、無秩序な社会が生まれてしまうじゃないか」と。そのとき、「自分」はどこにいるのか。自分を「善」の立場に置いていないか。自分は悪事などは犯さない。悪事を犯すのは、自分以外の人間だと。悪を自分以外のひとに見ている。
 自分には自分をコントロールできる「自由意志」があり、これがこの世の秩序を保っていると思っている。しかし、それは本当だろうか。私も、感情は無理であっても、せめて自分の意志で考えることくらいはコントロールできると思っていたのだ。しかし、どうもそれは事実と違うようだ。自分がものを考えても、考えが起こっている間は、考えるということには無自覚である。考えが起こってきて、その考えが、やがて、「考えていた」と自覚されたときに、初めて、「ああ自分はいま〇〇について考えていたのか」と分かるのである。だから、なぜそれをいま、自分自身が考えたのか、考えがやってくる始発の原初は、自分に知らされていなかったのだ。
 また、何かについて、たとえば、「時間」について考えようと意志して考えていたとしても、それを考えている間に、ふと違うことを考える。たとえば、お昼のご飯のことについて思いがよぎる。お朝事の読経の間など、自分の頭の中は、さまざまな思いがわき上がる噴水のような状態だ。何が考えを引き起こし、どうしてそのようなことを思ったのか。読経の後になって思い返してみても、自分の中に、「意志」というものは見つからなかった。これが人間が考えるというときの、「考え」というものの事実なのだ。
 それだからと言って、自分の思いのままに好き放題なことができるかと言えば、それはまた不可能だ。「阿弥陀さんのせい」だからと言って、好き放題ができるものではない。そこには阿弥陀さんだけにしか分からない、自律性があるのだろう。そもそも阿弥陀さんは、この世で苦しんでいるものを助けたいという願いそのものなのだから、ひとが苦しむようなことを促してくるわけもない。「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」とは言うものの、悪いことばかりをすることもできない。善も悪も、それは阿弥陀さん次第なのだから、その促しに身をまかせているしかない。
 ここに「慚愧」から「懺悔」へという展開がある。「慚愧」は、自分の過去の過ちを悔いて詫びる思いだ。それは道徳的には良いことと言われている。海面の、つまり社会性の面から言えば、出会い頭にひととぶつかりそうになったら、「ごめんなさい」と謝らなければならない。阿闍世王子も父を殺してしまったことを、悔いて苦しんでいる。それは、海面では良いことと言われているが、〈真・宗〉から見れば、傲慢なことなのだ。「慚愧」は、自分の所業を悔いて裁き、罪のない自分に戻ろうとする「善人意識」だからだ。できれば、その罪を帳消しにしたいのだ。つまりは、罪のない者になろうとしているのだ。しかし、過去に罪を犯してしまったのだから、その過去の自分を裁き殺すことになる。まさに「過去は未来の鏡」だ。
 この「慚愧」をコントロールしているのが「裁きの自己」というものだ。この「裁きの自己」が対象化されて見出されるのが「懺悔」である。「慚愧」は罪なき者になろうとする「善人意識」だったのかと自覚され解体されることだ。
阿闍世の言葉で言えば、「無根の信」である。「無根の信」とは、この世のあらゆる罪と一体化した宣言だ。阿闍世の言葉として書かれているところを引用してみよう。
 「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」(『教行信証』信巻所引の涅槃経)
 「世尊」とは御釈迦さんのことだ。もし私が、明らかにあらゆる人間のいろいろな悪心の根源を解体することができるのであれば、私は無間地獄に堕ちて、永遠に、あらゆる人間が受ける苦しみを受けても、それを苦とはしないというのだ。つまり、あらゆる人間の悪の根源を解体するということは、あらゆる悪が引き起こされる構造が明らかになるということではないか。つまり、悪は自由意志が起こせるものではなく、まさに「業縁のもよお」しだと受け止められたということだろう。この構造が解明されることで、永遠に阿鼻地獄の中にあって、衆生の苦しみを自己の苦しみとすると宣言できたのだろう。私はこれを、阿闍世が〈一切衆生人〉に成られたこととして受け止めている。
 〈一切衆生人〉とは、この世にあるすべての罪が湧き出してくる存在のことである。五濁悪世と言われる罪悪性は、歴史を貫いて全世界に蔓延している。たとえ他者が引き起こした、いかなる罪であっても、それは自分と無関係なものではない。他者が引き起こす罪は、自分が人間として存在するための基底から引き起こされてくるからである。その基底を包んで、私はひとを〈一切衆生人〉と言っている。私は「人間」である前に、〈一切衆生人〉である。
 阿闍世が「衆生のために苦悩をうけしむとも、もって苦とせず」と言えたのは、「慚愧」を脱し、〈一切衆生人〉に成ったということだ。だから「慚愧」が罪なき清い者になろうとする傲慢心であれば、「懺悔」はあらゆる罪と同化し、一体となった誕生の宣言である。
 『歎異抄』は、阿闍世に対して、「つみきえざれば、往生はかなうべからざるか」(第十四条)と問うだろう。罪が消えなければ、往生ができないとでも思っているのかと。それは「慚愧」のこころを超えよ、そして罪と一体化した悪人と成れという促しでもある。その促しに身をまかせれば、「いかなる不思議ありて、罪業をもおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし」という。「罪業」を犯すことも、また「念仏」が口を突いて現れないのも、すべては「業縁」のもよおしにまかされているから、阿弥陀さんの言いなりになっていればよいのだと言う。
 「慚愧」を突き抜けて、「懺悔」へ降り立てば、そこが〈一切衆生人〉の居場所である。この深海の如き、場所で、「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」という言葉が生々しく躍動しているのだ。