牧師さんの感想

法友から、また牧師さんの読後感想文が送られてきたので、ご披露することにする。
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■「佛説 武田・定光経  断章」■
『佛説まど・みちお経』(武田定光、因速寺出版、2017年、非売品)
「ぞうさん、ぞうさん、おはなが ながいのね」の、まど・みちおさんの詩を、浄土真宗の武田定光住職が読んだ本。
なぜ、これが「佛説」なのか。
「「佛説」とは、「説いた人間に属す出来事」ではなく、それを「佛説」として「受け取った人間に属す出来事」なのである」(p.2)。
では、「佛説」とは何か。
「私は、まどさんの詩の底流に釈迦が直感した〈ほんとう〉が流れていると受け取っている。それを突き詰めると、「佛説」とは客観的に存在するものではなく、あくまで、それを「佛説」と受け取った人間の内面にしか成り立たない出来事なのである」(p.3)。
けれども、著者は「佛説」だけが〈ほんとう〉と言っているのではない。
「『聖書』や『仏典』が語ろうとしてきた〈ほんとう〉は、各人の内面に燈火となって灯されたとき、初めて〈ほんとう〉のことになるのだ」(p.4)。
「私は、ナザレのイエスも、まど・みちおも、そして釈迦も親鸞も、〈ほんとう〉を直感した先人たちだと尊敬している」(p.5)。
 ぼくも著者を〈ほんとう〉を直感している同時代人やや先輩だと尊敬して、何冊も読ませていただいている。
では、まど・みちおの詩にはどのような〈ほんとう〉が直感されているのか。
「かもつれっしゃが/ごっとん とんとん/ごっとん とんとん/おんなじものが/つづいていくと/なぜだか なぜだか/かぞえたくなる/かぞえて こころに/しらせたくなる」(まど・みちお)
これを著者はこう受け取る。
「数えたくなる欲望について考えてみた。これは仏教で言うところの「慢」のこころではないかと思い至った。「慢」とは、「驕り高ぶること」だけではない。その前に、自分と他人とを比較するこころを土台にして起こってくる。「数える」ことと「比べる」ことは、厳密には違うが、無関係ではない」(p.144)。
 著者はまどのかもつれっしゃに、他と比較してしまう自分の〈ほんとう〉を見る。
ぼくも数える。歩きながら石段を数える。下水の蓋石を数える。そこにはリズムがある。心臓、血流、人生、いのちのリズムがある。
「慢」や「他との優劣の比較」は好ましくないもの、いのちのリズムは好ましいもの、としてしまいがちだが、著者はこのように述べている。
「煩悩が受動的なものであり」‥‥たしかに、「かぞえたくなる」とは受動的だ‥‥「その煩悩で充満している私をこそ、助けて下さるのが阿弥陀様なのだから、むしろ「たのもしくおぼゆる」と言うのです。まず、私が煩悩を起こせるという思い上がりを否定され、煩悩も煩悩自身の道理で働いていることを教えられます。そして、煩悩が私の身の上に、わたしの思いを超えて起こって下さり、それを契機にして救ってくださるのですから、「たのもしい」という安心感が成り立ちます。これが親鸞の「非僧非俗」の立場だと思います」(p.37)。
 そうであるなら、数えたくなることが、「慢」でもあり「いのちのリズム」であってもよいだろう。
「雨の日に帰ってくると/玄関でぞうきんがまっていてくれる/ぞうきんでございます/という したしげな顔で/自分でなりたくてなったのでもないのに」(まど・みちお)。
 著者はこれを「ぞうきんは自分が汚れることで、他のものを美しくするという、まさにイエス・キリストのようなひとだ」(p.130)と評する。
「太陽/月/星/ /そして/雨/風/虹/やまびこ/ああ 一ばん ふるいものばかりが/どうして いつも こんなに/一ばん あたらしいのだろう」(まど・みちお)
「一ばん ふるい」「一ばん あたらしい」とは何か。
 「〈いま〉とは、法蔵菩薩が何十億年前に、初めて願った救いの〈いま〉であり、それが何十億年たって、ようやく私一人のために成就した〈いま〉だったのだ。この〈いま〉は何十億年の救いを背景として成り立っている〈いま〉であった。/「何十億年」という時間が、単なる寓話であれば、何の感動もあたえない。それが、〈いま〉までに私を救うために費やされた時間だったと受け止めたとき、感動を生む」(p.162)。
 創世記の「初めに、神は天地を創造された」という言葉を読んで、ぼくは、「神さまはわたしたちといういのち、わたしたちという存在、わたしたちの生きる世界、わたしたち以外の存在を創ってくださった」と、創造を今の出来事としては説くが、創造物語が示唆する太古から現在までの悠久の時間が今この瞬間のあなたひとりのためにあった、という感動には、これを読んで気づかされた。
「リンゴを ひとつ/ここに おくと/ /リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけで/いっぱいだ/ /リンゴが ひとつ/ここに ある/ほかには/何にもない/ /ああ ここで/あることと/ないことが/まぶしいように/ぴったりだ」(まど・みちお)
 著者いわく、「他ならぬ自分がここに「ある」。それは他の人間を排除し、他のあらゆるものを排除して、いまここに「ある」のだ。そうなると、もう「申し訳ありません」という懺悔しか生まれてこない。しかし、この懺悔を潜ったとき、初めて「そうであっても、許されてある」ということが頷ける。この「許されてある」ということを抜きにしては、「まぶしい」という言葉は生まれてこないように思える」(p.43)。
 「申し訳ありません」と「そうであっても、許されてある」は時間の前後のことのようでもあるが、同時のことでもあろう。さきほどの「煩悩が救ってくださる」、煩悩即救い、と同様である。
これは、「機の深信」「法の深信」ということでもあるのだろうか。
「「機の深信」は「自己は罪深い者であり、大昔から迷い続け、救いの出口すらない存在だと深く信ずる」ことです。一方の「法の深信」は、「阿弥陀如来の本願は、私を救って下さり、間違いなく浄土へと往生させて下さると深く信ずる」です」(p.31)。
 武田定光さんの本をいくつか読んできた。ぼくの人生の楽しみである。この感想文は「佛説武田・定光経」の一章にはならないだろうか。著者の書くものには〈ほんとう〉を感じさせていただいている。
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 小生の思うところの核心をお酌み取りいただき、深く受け止めて下さる姿勢に頭が下がった。おそらく、この牧師さんも、そして私をも納得させずにはおかないものこそが〈真実〉なのだろう。 〈真実〉はひかりそのものだから、決して見ることはできない。人間が見ることのできるものは、ひかりの当たった影だけである。
 法然聖人の歌が思い出された。「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人のこころにぞすむ」だ。「月かげ」とは、月のひかりのことだが、それを阿弥陀さんの光明の譬喩として詠んでいる。雲一つのない満月の夜に、月を眺めるひとがいる。山深い谷間の山里であっても、あるいは富士山の頂上であっても、月は同じひかりを放っている。法然聖人は、どの位置で詠まれたのか。私は山深い谷間の、ほとんどひかりの届かない場所で詠まれたように思う。決して富士山の頂上で詠まれたものではないだろう。こんな谷間にいる私にまで届いて下さったのかと、頭を下げている法然聖人が感じられる。まあ、たとえ富士山の頂上であってでも同じひかりなのだ。
 ひかりを深く受け止めるひともいれば、浅く受け取るひともいる。それはひかりの問題ではなく、どこまでも、「ながむる人のこころ」の問題である。だから浅くてもよいのだ。浅かろうと、それは阿弥陀さんのひかりなのだから、浅深の問題ではない。
 いや、人間の受け止めはどこまでいっても、浅いのだ。浅いからといって、卑屈にならなくてもよい。浅さに対して劣等感をいだかなくてよい。それは「天下一品の浅さ」なのだから。