「悲しみ」という罪

 五十代の女性が亡くなった。お子さんもお孫さんもおられた。葬儀の場面では、幼いお孫さんも、小さな手で棺の中にお花を入れていた。しかし、とても悲しんでいるようには見えなかった。むしろ、この「退屈」な葬儀という時間に対して、むずかっているようだ。他のお孫さんも、読経中には、大声を出し、早くこの「退屈」な場所から解放してくれと言わんばかりだった。それもそのはずだ。「死」とは、人間が知的に学ぶことによってのみ理解できる「意味」だからだ。「死」は「生理的」なものではないく、どこまでも「意味的」である。
 一方、大人たちは、まったく違っていた。いわゆる「悲しみのどん底」に沈んでいるようだった。棺の中の彼女を見れば、生前とは何も変わっていないように見える。何も変わっていないのだけれども、違っている。同じように見えるのだが、生前とはまったく違った彼女がいる。このコントラストが絶望的な悲しみを生み出す。
 大人は何に対して悲しんでいるのか。棺の中の彼女を見て、そこに何を感じ取っているのか。それは生前の彼女の姿ではないか。いまここにあるのは、微動だにしない彼女の姿だ。その姿を見て、かつては一緒に過ごした彼女を思い出し、その思い出しこそが、悲しみを生む。かつての彼女は「動の彼女」であり、いまここにあるのは「静の彼女」である。このコントラストの強度こそが悲しみという感情をもたらす。
 だから、何が悲しいのかと言えば、その「思い出」である。悲しみは、その「思い出」の中にしかない。つまり、悲しみは生者のこころの中にしか住めない。
 そう思うと、自分の見つめている「静の彼女」は、〈真実〉の彼女ではないと思えた。つまり、生者の思いが受け取った限りの彼女でしかないということだ。棺の中の彼女を見つめている視線が、同時に、〈真実〉の彼女を見てはいない視線だと感じられた。それでは〈真実〉の彼女はどこにいるのか。それは生者の自分には知らされていない。果たして、生前の彼女自身も、〈真実〉の自分を知っておられたかどうか分からない。
 この分からなさの淵源を辿っていくと、つくづく人間は、〈真実〉を知らないものだと教えられる。ただ、自分の「思い」を〈真実〉だと錯覚して生きているだけだ。
 確かに、「他人」の自分から見れば、肉身を亡くされた当事者の悲しみは、当事者以外には分からないから、想像を絶する。私には、察してもあまりある悲しみだ。「さぞやお寂しいことでしょう」とは思う。しかし、その有様を俯瞰する阿弥陀さんは、どうご覧になっているのだろうと、阿弥陀さんからの視線を想像せざるを得ない。
 その視線を感じたとき、自分の見ている「静の彼女」は、〈真実〉の彼女ではないと、知らされた。さらに自分の思いの中に彼女を引きずり込んではならないと感じた。彼女を引きずり込んで、悲しみの道具にすり替えてはならないと感じた。
 悲しみは、純粋な人間の感情のように見えて、実は「貪欲」という煩悩を下敷きにしている。自分の欲するような状況、あるいは自分の都合に合った状況に対しては起こらない感情だ。つまり、それを裏返せば、「貪欲」が裏切られた状況に対してだけ起こる。そう思うと、人間は「罪悪深重」だと、つくづく知らされる。阿弥陀さんのご覧になっている、「悪人」とは、そこまでを貫徹された言葉だったのか。