「存在倫理」の疼き

『東京教報』第184号(2023/04/01発行)の巻頭言を依頼されたので、ここに転載する。
テーマは「存在倫理」の疼き
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誰が見ても、ロシアによるウクライナ侵略戦争は間違っていると思えるのに、その考えは、いわゆる「西側」という色メガネを掛けた人間たちの感覚なのだと教えられた。それは「国連人権理事会での『理事国としての資格』をロシアから剥奪する国連決議に関して」、圧倒的多数で賛成されるはずだと思っていたのに、「決議案に賛成したのは九十三ヶ国、賛成しなかったのは八十二ヶ国。」(大澤真幸『この世界の問い方』朝日新書)と評決が拮抗したことを知ったからである。「賛成しなかった八十二の国」とは、「グローバルサウス(第三世界)」と呼ばれる、アフリカやラテンアメリカ諸国、アジアの新興国のことだ。その理由を大澤は、「少なくとも、これらの国々から見れば、ロシアの人権侵害を非難する西側諸国も、今ロシアがウクライナに対してやっているのと同じよう
な人権侵害を、自分たちに対して行ってきたように感じられるからである。」と述べている。
 だからといって、ロシアの侵略戦争がまったく支持されるわけではない。そこで大澤も述べているが、西側を支持すべきだと。西側は自分たちの偽善が偽善であることを自覚できる可能性を秘めているからだと。そしてその自覚が同時に、グローバルサウスの国々が真底納得する「倫理」につながっていなくてはならないと。
「西側」という色メガネを掛けた私の罪も、そこに炙り出された。同時に、人間が「我々は」という言葉を使うとき、どこまでを「我々」と意識できるかが問われた。阿弥陀さんは、「諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、我が名字を聞きて慈心せざるはなけん」(真宗聖典p158)と言われる。つまり、阿弥陀さんが呼びかける救済対象としての「我々」は、人間をも超え、ボウフラや蛾やミミズなどの生き物も包んでいる。当然、グローバルサウスをも超え包んでいる。そこまでを射程に入れられなければ、あらゆる生き物が納得する「倫理」にはならない。奇しくも
亡き吉本隆明が「存在倫理」という言葉を作ってまで表現しようとしたかった「倫理」とは、そういうものではなかろうか。
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以上が巻頭言だ。この原稿は二月七日に提出していたもので、これをいま(四月九日)読むと、どことなくいまの自分とはズレているような感じもする。問題関心がズレているわけではなく、書いたときの熱気が少し薄れているといった感じだ。巻頭言なので、文字数が八百字程度という制約があり、丁寧な言葉の説明は書けない。最後には、吉本隆明さんの「存在倫理」という言葉を使ったのだが、これも詩的な言葉で、吉本さんのなかでも熟成していたわけではないと思う。彼は二〇〇一年九月十一日に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」について述べているところで思いついた言葉だと言っていた。(『群像』第57号・二〇〇二年一月一日発行掲載の「対談 吉本隆明と加藤典洋「存在倫理について」)これはイスラム勢力による航空機を使って建物に突っ込むというテロ事件で、これへの報復で、当時のブッシュ大統領は、テロとは自由への挑戦であり、我々は自由のために戦うのだと言った。吉本さんは、イスラム勢力にも、ブッシュ大統領に戦うための正義があるのだろうが、いくら正義を掲げても、決して犯してはいけないものがあり、それが「存在倫理」なんだと言っている。航空機でビルに突っ込むときに、自分たちはよいとしても、同じく飛行機に乗り合わせていた「無辜のひと」を道連れにすることは絶対に間違っていると強調していた。それは「存在倫理」に抵触すると。
 まあ煎じ詰めると、モーセの十戒の第六番目に出てくる「あなたは殺してはならない」という不殺生を訴えているようにも感じた。いかなる人間の正義を掲げようとも、「殺してはならない」と。イスラム勢力もブッシュ大統領も、その戒めを破っている。しかし、人間はそういう戒めがあろうとも、幾世紀に渡っても戦いをしてきた。人類の歴史は「戦争の歴史」だと言われるくらいだ。
 そのとき必ず人間は「正義」の名の下に戦いをおこなう。その「正義」を批判できる視点はどこにあるのかと、加藤典洋は、次のように言っている。「どう内省しても、自分たちのほうが間違っているという判断は絶対出てこない。互いにそうなわけです。だから、どこまでも殺し合う。」そこで、「何が『真』かということをカッコに入れて、とにかく共存していくことをその『真』よりも大切な『善』であると考えた。相手との関係から、何が最も大事な『善』かということを割り出し、これをそれまでの『内在』的に割り出された『真』に代えたわけです。僕はそれを、『内在』から『関係』への『転轍』と名づけています。」
 彼はヨーロッパでの、キリスト教の新教と旧教との三十年戦争を経て、ウエストファリア条約(一六四八年)を結んだ成果を分析して、そのように述べている。
 なぜ新教と旧教が「共存」へと移行できたのか。それは実質的にお互いの利害があまりに悲惨な状態になっていたからだと認識されたからだろう。理屈よりも実害が酷すぎるから、一時停戦しましょうという「関係」を優先したと。しかし、我が国が発明したといわれる「特攻」という思想は、相手を殺すが自分も助からない。この延長線上に同時多発テロがある。そして、これは嫌な想像だが、ロシアのプーチン大統領が、万が一、劣勢の窮地に追い込まれたら押すかもしれない核爆弾のボタンへの道でもある。これはウエストファリア条約以前に舞い戻ってしまうことを意味している。「正義」のためには、この世のあらゆる「実利」を無視する態度である。
 その赤々と燃えるような「正義」を抉り出し、一気に水を浴びせて冷却する装置はないのか。
 我々は、それを「阿弥陀さん」と呼んできたのではないか。これは「内在」を「関係」という外部へ解体する方向ではなく、「内在」が「内在」の深奥へと解体し溶解する方向性である。だから、どれほど人間が「絶対なる正義」を主張したとしても、それを必ず「相対化」してしまう装置である。「成熟した一神教」である〈真・宗〉は、そうでなくてはならない。
 ところがである。太平洋戦時下において、曽我量深先生が語った、「阿弥陀さんの願いと天皇の願いは同じだ」という発言がある。それが政治的判断から生まれた自己保身の発言であれば、まだ理解できるのだが、どうも違っている。曽我先生は自己の信念として、ノリノリでそう語っているようなのだ。それを曽我先生個人の問題として片付けるのではなく、自己自身の問題として受け止めたらどうなるだろう。戦時下に生きていないものが、戦時下を生きていた人間を云々するのは、「後出しジャンケン」だから禁じ手だ。その時代を生きていた人間にしか、その時代を生きていた人間を云々する資格はない。その禁じ手を敢えて破ったところからの詮索だから、これは見当違いのことを言っているのかも知れない。その前置きを置いて、考えるとどうなるだろうか。
 直観的だが、その問題の根っこを取り出してみると、阿弥陀さんの本願と人間の本願を同化して考えるという発想にあるように思える。阿弥陀さんはあらゆる存在を救おうと発願された。天皇も同じように考えられている。だから同質だと見えてしまうことの危険性である。確かに、『仏説無量寿経』が仏説だから御釈迦さんの発言だと見る見方もあるが、冷静に見れば、経典製作者の作品である。つまりは人間の制作した文学作品である。そこに描かれている本願は、どこまでいっても人間が受け止めた範囲を超えることができない。
 よく阿弥陀さんも反戦・非戦を願っているのだから、人間がそれを実践できないのは大問題だと言った文脈で語られることがある。その見方も、人間の思いの範囲内で、阿弥陀さんの本願を理解しようとする間違いを犯している。阿弥陀さんの本願は、人間の願いでもないし、人間の願いに共鳴するものでもない。それを共鳴するものだと考えてしまうと、曽我先生の犯した間違いと同じにことになる。阿弥陀さんの本願と、人間の願いとは同化共鳴することはない。そこに超えては成らない一線を引かなければならない。
 その一線が、第十八願の願文の末尾にある「唯除五逆誹謗正法」である。この「唯除」の文がなぜあるのかということも、経典制作史の観点からみると言わなければならないこともあるが、それを省略して、結論を述べれば、この逆説が、人間と阿弥陀さんとを分けることのできる一線である。いま、「逆説」と言ったが、これは人間から見た場合の言い方だ。「逆説」とは、人間から見れば、それが矛盾していることを語っているかのように受け取られるということだ。だから、人間が「逆説」に出会うことだけが、一線を意識できる可能性を秘めている。この「逆説」を通して、人間と阿弥陀さんとの願いは乖離していることに目覚め、乖離どころではなく、反逆していることを知るのだ。人間は阿弥陀さんのようには平和も願えないものなのだ。人間の願った平和には、必ず裏に毒が潜んでいるのだ。平和を願っている自分自身を、自分で肯定し、慰撫しようとする欲望がだ。その毒をも「唯除」は見逃さない。
 この「唯除」の意味を徹底して受け止めなければ、曽我先生の間違いは超えられないだろう。これが現代の私の視座から見ることのできる「景色」ということになろう。