芹澤さんがいなくなった

いつものことだが、夕飯時分は、孫が騒ぎ、ご飯も食べないで遊んでいる。昨日も、母親から「早くご飯をたべなさい!」と叱られても、なかなかご飯を食べないでいた。こんな風景はいつものことで、取るに足らない日常である。
 孫が膝の上にいたとき、携帯が鳴り出した。ふと見ると芹澤さんのお連れ合いの名前だったので、そのまま携帯を妻に渡した。恐らくハンドベルコンサートか何かのことで連絡してきたのだろうと思いつつ、それならば小生よりも坊守の方が話が早いだろうと思って、渡した。坊守は、孫が大声で騒いでいるので、携帯を持って別室へと向かった。
 しかし、漏れ聞こえてきた応答の仕方で、話の内容が尋常ではないことを察した。それを知って、嫌な想像をしている自分を打ち消そうとしている自分が、そこにいた。とうとう、坊守が電話を持って、こちらに来て、涙を拭いながら述べた。
「芹澤さんが亡くなった」と。
 その嫌な予感が的中してしまった。「まさか」、「藪から棒」に、そんなことを言われても、受け止められない。血小板がどんどん減少して、脳内の出血が止まらず、みるみるうちに、亡くなってしまったと、電話からは聞こえてきた。(ここまでは、3月23日に書いていた。)
 しかし、ここからは4月1日に書くことにした文章だ。芹澤俊介さん(81歳)が、3月22日に亡くなった。何の前触れもなく、突然のことだったので、どうしてよいか分からなかった。お連れ合いからは、まだ皆さんには公表しないで、家族だけで、静かに見送りたいという思いだったので、ここに記すことができなかった。
 取り敢えず、娑婆の習いで、「葬儀」らしきものをすることになった。3月29日10時30分から、我孫子の葬儀会館でおこなった。ご家族とごく親しい人々だけで見送った。火葬場で骨を拾った。その一部分をもらってきた。
 いままで、極日常に傍で、当たり前に暮らしていたひとが、居ない。そのことをどう受け止めればよいのか。ご家族は戸惑い、まだどう受け取ればよいのか、受け取りあぐねていると言っていた。だから、まだ涙を流して悲しめないと。
 悲しみという感情は、事実と一つになっているときには起こらない。事実と距離を取れるようになってから、初めて人間に訪れる感情なのだろう。
 それでもお連れ合いは、霊感の強いかたで、今年に入ってから妙な胸騒ぎに襲われていたそうだ。それが何を意味しているのかは分からなかったけれど、今回のことだったのだと言われていた。不思議なことに、このようなことが起こると思って、そのときには、このようにしようとミュレートしていた自分がいたとも語られていた。
 凄いひとだと思った。まあ肉体としての彼はいなくなったけれども、彼のタマシイは我々の中で生き続ける。だから「死」という観念の中に彼を押し込めてはいけないと思った。