桜の花が咲き始めた。拙寺の源平桃もほころび始めた。ピンクと白のつぼみが美しい。
でも不思議だ。私の眼と桃との間は、いつも透明な空間が広がっているから色が見えている。空気があるのだろうけれども、それは目で見ることができない。この透明な空白があって、初めて桃が桃として見えてくる。そんな当たり前なことをわざわざ言う必要はないと言われそうだ。しかし、私は不思議に思うのだ。
私が見ている「桃」の本当の名前はない。これは人間が「桃」と命名しているだけだから、あの植物の本当の名前ではない。つまり、本当のことは人間には明かされていないのだ。それであるのに、人間は「桃」と命名することによって、あれを把握したと思い込んでいる。そこに人間の傲慢が潜んでいる。本当は、人間には把握できないことなのだ。「桃」を見ているはずなのに、「桃」を見てはいないのだ。
「桃」と命名することによって、あれを冒涜しているのだ。そのことに気づくと、目にするあらゆるものが、人間には明かされていないのだと思われる。人間が分かったことにしているだけで、本当のことは見えていない。
見えていないのに、何でも分かったと思い込んでいるのはなぜだろうか。分かったと思い込んでいて、それで平然としていられるのは、なぜだろうか。それは人間が「意味」という観念を持っているからだろう。「桃」を見ては「桃という意味」を「真実の桃」だと思い込んでいるからだろう。でもそれは人間にとっての「意味」であって、本当のことではない。だから、実際にあれを見ていなくても、「桃」の花を、頭の中で思い浮かべることができる。この作用を「表象作用」という。
本当は、あれと自分との間は無色透明なはずなのに、それを「意味」というもので埋め尽くし、人間的な環境世界を作り上げている。しかし、そのことに気づくと、環境世界は人間にとって、まだ未知未開の空間だと思わされる。環境世界から「意味」というものを取り外してみれば、そこは人間にとって、まったく手つかずの未知未開の「事物」で埋め尽くされていることが分かる。
いつも面白いと思うのだ。言葉の意味を調べるために辞書を引く。(いまでは検索エンジンがあるから、スマホで意味を調べることが多いのだが)面白いことに、辞書の何処を探しても「意味」は見つからない。あるのは文字の羅列だけである。例えば広辞苑で、「右」という文字を引くと、一番目に「南を向いた時、西にあたる方」と出ている。まあ地球上で実際にやってみれば、たしかに「南」を向いて、「西にあたる方」を見ることができる。しかし、なぜそれを「右」という文字で表現するのかは分からない。ついでに「上」を調べると、最初には「物の上部」とある。これも実際に箱を見ていて、その上部を見ることができても、なぜそれを「上」というのかは分からない。分からないのだけれども、実際に自分がやってみれば、そのことの意味が分かるだろうという思い込みで辞書はできている。
それは物理的なことだから、「やるせない」を引いてみた。すると「心のやりどころがない。思いを晴らす方法がない。胸が鬱積して心が晴れない。」と出ていた。この言葉の羅列をこころの中で思い浮かべれば、「やるせない」がどういう精神状態かはおのずと分かるだろうということで辞書はできている。
しかしそれらはすべて、人間のこころの中で起こっていることであって、物理的な環境世界とは無縁のことではないか。だから、辞書を作っている会社に、言葉の意味を調べようとしたのに、書かれているのは「言葉」の羅列だけであって、どこにも「意味」が書かれていないじゃないかと文句を言いたくなるが、そんなことで文句を言うひとはいないだろう。それは言わずもがなの了解事項だと思っているからだ。
人間にとって大事なのは、「意味」だけであって、「事物」そのものではない。そうやって「意味」を貪ることは、「事物」を冒涜している罪であることは間違いない。