私は死んでもいないが、生きてもいなかった。こんなことがあろうか。それに気づいたら、やたらと〈いま〉が輝き出した。
「死んでいない」ということは、誰しもが賛同するだろう。しかし、「生きてもいなかった」ということは承認できないのではないか。実は「死」と「生」は同じことの裏表であるから、どちらか一方だけを知ることはできない。
死んでもいないけれども、生きてもいなかった。一旦、それを確認したところから〈いま〉を見つめてみるとどうなるだろうか。自分が見ている目の前の景色が、一体、何なのかが分からなくなる。太陽のひかりが届くことで、私の眼には景色が見えている。そのこと全体がどういうことなのだろうか。
眼で向こうに見える景色を見ていると思ってきたが、眼と、向こうに見える対象物の両方で「景色」が出来上がっているのか知れない。私は、問うこともないから分からないけれども、「私」がまず存在して、その「私」が眼を通して景色を見ていると理解しているだけだ。それは「理解」であって、それを「理解」として考えている「私」というものを問うたことがない。「私」が生きていると思っているけれども、その「私」とは何かが分からない。いつもその「私」が空白になっている。だからいろんなもので埋めようとする。渋谷の質屋さんを襲った強盗も、それを「金」という価値で埋めようとした。もっと高尚なもので埋めようともする。この世に存在する価値(意味)というもので埋めようともする。しかし、どれほどそれを埋めようとしても、それは空しい。それは人間が考えた「観念」に過ぎないから。
本当のところは、「私」というものは存在しないからだ。だから埋めようとして、何をつぎ込んでもすべては空洞に飲み込まれていく。だから「死んでもいない、けれども生きていなかった」という言葉に救いを感じる。そう言い切ってしまうと、「いま・ここ・私」が輝き出す。この〈存在の零度〉が剥き出しになってくる。「いま・ここ・私」が成り立つための、つまり背景としての「永遠の過去」が思われる。そして人間の手つかずの、純粋な〈存在の零度〉が、ブラックホールのようにはたらき始める。ああ、何と言うことか。人間の「一切の観念」が飲み尽くされようとしているではないか。