「永遠と〈いま〉」との出遇い。それが「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」である。「弥陀成仏」とは「永遠」、「いま」というのが〈いま〉だ。この「永遠と〈いま〉」との出遇いの場、それが〈存在の零度〉だ。
私はこの〈存在の零度〉から、未だかつて一歩も動いていなかった。その「私」とは、「いま・ここ・私」の全体を意味している。私は動物だから、つねに何かを行為している。だから動いている。自分が動いているものだから、世界は止まっているように錯覚する。固定した世界の中を私が動き回っていると錯覚している。しかし、〈存在の零度〉を中心にして見れば、私はどこにも動いていなかった。これは地動説と天動説のような違いであって、どちらも〈真実〉ではない。だから、私が世界の中を動いているというのも、世界が私に向かって動いてくるというのも間違いなのだろう。
それらが共に〈存在の零度〉に飲み込まれていく。
「時間」もそうだ。時間は未来から現在へ、現在から過去へと流れるものではない。我々は、ものが移動することで、つまり空間移動をもって、「時間」という観念を作り上げているだけだ。だから、「時間」とは客観的に存在するものでも、物理的に存在するものでもない。これは人間の「観念」の中にしか住んではいないものなのだ。
「私」というものもそうだ。「私」などという実体はどこにも存在しない。それは「私という思い」でしかなく、物理的に存在していない。肉体があるじゃないかというが、それすら「私という思い」の中の産物であって、どこかに実体があるわけではない。大雑把に見ると、肉体が自分だと思ってしまうのだが、肉体を包んでいる環境と自分はどこも切り分けることができない。空気も水も食物も肉体を成り立たせているのだから、環境と肉体は不可分の関係だ。また肉体を切り刻んでみても「自分」というものはどこにもないだろう。どこにも「自分」という実体はないのに、あたかも「自分」があるかのように思って生きているのが「私」だ。
鏡を見れば、老いた自分が映っている。昔の写真と比べてみれば、確かに変化していることが分かる。若い頃は髪の毛が黒々しているが、現在は大分白くなってきた。それを人間は「老い」というのだが、それは肉体の変化であって「老い」というものとは一致しない。「老い」というものは「若い」というものとの相関関係にあるから、明日より今日は「若い」し、昨日より今日は「老い」ているというだけのことだ。まあ「老い」という意味も、「絶望道」の中で否定的に感じる感情が生み出されたものだろう。
「死」も、自分は体験できないのだから「観念の死」でしかないが、これも「絶望道」の意味空間内部の否定感情で彩られている。
そうやって〈真実〉という鋭利な刃物で腑分けされてみると、「時間・空間・主体」が、幻想というと言い過ぎだが、人間の「観念」の内部のことだったと覚めてしまう。そして自分は「永遠」と対面させられる。まあ「永遠」以外とは対面してこなかったのだ。「十劫」の昔から。流れない時間の中で、「永遠」と対面してきたのが自分だった。「永遠」の前から一歩も移動することもなく、「永遠」と対面してきた。
それを「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」という親鸞の和讃に感じている。「弥陀成仏」とは、法蔵菩薩だった阿弥陀さんが、あらゆる苦悩する存在を救い取りたいという願いを発され、その願いが成就して、阿弥陀仏に成ったという意味だ。そして「いまに十劫をへたまえり」とは、その「弥陀成仏」の状態から、〈いま〉は「十劫」(永遠)という時間が経過しましたという意味になる。つまり、我々が求めている「救い」はすでに「十劫」の時に成り立ってしまっていて、その状態に目覚めるときが〈いま〉だという意味になる。
そう言われても、自分には「救われた状態」など、どこにも感じられないのだ。ということは、阿弥陀さんが救い取りたいという「願いが成就した状態」と、我々が実感する「救われた状態」が乖離しているということだ。我々が実感する「救われた状態」とは、悪条件を好条件に変更されること以外にない。しかし、阿弥陀さんの「救い」は無条件だからだ。だから、人間には阿弥陀さんの「救い」は実感されない。阿弥陀さんは「条件」の変更を、一切やらないから。それは「条件」の変更をやっているような余裕がないからだ。「無条件の救い」だから、「そのままの救い」ということになる。
ということは、私が生きている「いま・ここ・私」とは、阿弥陀さんの「願いが成就した状態」の中に、「十劫」の時からあるのだ。だから我々の目論見の当てが外れた状態なのだ。我々が「願いが成就した状態」にあって、その中で、「いま・ここ・私」が苦しんでいる。「いま・ここ・私」がぶち当たっているのは、突き詰めれば「四苦八苦」だ。こんな状態を望んではいないぞ!と私は阿弥陀さんに抗議する。「四苦八苦」を取り除いてこその救いであって、それが取り除けない阿弥陀さんなど、阿弥陀さん失格だぞ!と。
さんざん、阿弥陀さんに抗議し、阿弥陀さんの胸をドンドンと叩いている。阿弥陀さんは、ただ黙って、私の叩かれるままになっている。叩く力も当初は力強かったが、叩き続けているうちに力も萎えてした。とうとう叩く力もなくなり、涙も涸れ果てて、トボトボと力なく家路に着いた。
たとえそうであったとしても、そんな私に向かって阿弥陀さんは、遠くから、お前は私の願いが成就した状態の中にあるのだぞと叫び続ける。決して諦めることなく、何度でも。それが「重誓名声聞十方」(『教行信証』行巻・聖典p204)だ。「重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと」。こちらの目論見と乖離していようがいまいが、阿弥陀さんは、いつでも何度でも叫び続けている。たとえ目論見と外れていようがいまいが、そんなことはどちらでもよい。その全体を、丸ごと阿弥陀さんの叫びに放擲せよと。「南無」せよと。その叫びが浴びせられようとも、それに対して抗議し続け、戦い続けているのが私だ。ここはまさに戦場だ。
この阿弥陀さんとの格闘が、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」という和讃を思い出す度に、立ち現れる。これは穏やかな情感を歌った和讃ではない。阿弥陀さんとの骨肉の争いを物語っている。
そんなことを言ってはいても、これはすべて私の「観念」の中の「独り相撲」に過ぎないのだ。もともと私は阿弥陀さんなど知らないのだから。人間の作り上げた「観念」が阿弥陀さんなのだから。そのことに目覚めれば、また〈存在の零度〉に帰ることができる。苦しみも悲しみも、この〈存在の零度〉から吹き出してくるものだし、またそこへと飲み込まれていくものだ。そして何事もなかったかのように、大海原には風が吹いている。
私には、過去も未来もない。あるのは〈存在の零度〉から湧き上がってくる〈いま〉だけだ。この「永遠」からの湧き上がりだけに満たされる。