「ぶどう園の労働者」はどこにいるか

 一昨日は、「浄土真宗Live」というインターネットを利用した映像配信だった。テーマは「悪人成仏とは」だ。それで、『歎異抄』第三条に出てくる「悪人」をめぐってあれこれとお話しした。Live放映する時間と、野球のWBC放映時間がかぶっていたので、誰も見やしないと思ったが、それでもLive放映をご覧になった奇特な方もあったようだ。まあ、野球はLiveで観て、浄土真宗Liveは録画で観るというのが賢いやり方かも知れないのだが。
 言いたかったことは、世間常識で考える「悪人・善人」は固定した観念だが、親鸞の直観したであろう意味空間では、二つは意味転換する。つまり、第一段階では、「悪人」とは、「疑心の善人」のことなのだと知る。阿弥陀さん不要論が「善人」の発想だから、この「善人」こそが「悪人」として阿弥陀さんから批判される。それでは私は「悪人」なのか。そう問うてみると、いかにも私が「悪人」のように思えてしまうが、そうではない。自分が「悪人」だと自覚してしまうと、それは必ず「造悪無礙」に堕す。「私こそ『悪人』でございます」と言った途端に、その「悪人」の自分を、自分自身が許すのだ。悪を犯しても仕方ないと、自己保身を考えるのが「造悪無礙」の発想だ。それで阿弥陀さんは、「悪人」という自覚を人間に与えないようにはたらく。それを私は「汝、悪人よ!」という呼び声の側に「悪人」はあり、それを聞いた自分の側にはないと言った。もし人間に「悪人」の自覚が成り立ってしまったら、それ以上、阿弥陀さんは「汝、悪人よ!」という呼びかけをする必然性がなくなってしまう。阿弥陀さんは、つねに、ひとときも休まず叫び続けているのだろう。だから、究極を語れば、「悪人」という言葉は人間にとって、どこまでも「謎」であり、阿弥陀さんの「暗示」ということになる。人間には、阿弥陀さんがご覧になっているように「悪人」を見ることはできない。
 まあ、いくら阿弥陀さんの呼び声だとしても、「悪人」という言葉は、人間の言葉であるという限界を超えることはできない。だから人間の頭の中に取り込み、観念としていじくり回すこともできる。まあ観念の遊びとして、いくらでも解釈が生まれる。しかし、私には「悪人」を定義する力はないのだ。どこまで「悪人」を定義したとしても、定義した途端に、その意味と「悪人」がズレていくからだ。また定義することで、人間が分かったことにすることを許さないのが阿弥陀さんだ。
 これは『歎異抄』第九条の「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」と同じ構造だ。「悪人」も「凡夫」も、「仏かねてしろしめして」だから、阿弥陀さんがご存じのことであって、人間が定義することを許さない。つまり、「悪人」、「凡夫」は「仏説」だったのだ。それであっても、言葉は人間界にも融通するので、人間はついついそれを取り込んで、頭の中に「悪人」という観念を捏造してしまう。人間が「悪人」、「凡夫」という言葉を使うときは、必ず「造悪無礙」で自分を自己肯定する文脈で使う。またそういう文脈以外で、人間には使うことのできない言葉だ。だから誤解なのだ。だが、阿弥陀さんはたとえ誤解されようとも、敢えてその言葉を人間が使うことを許す。そもそも人間には誤解しかないからだ。また誤解が大切で、尊いことなのだ。もし誤解がなければ、その誤解を転じて正解に導くことができないからだ。それで阿弥陀さんは、誤解、大いに結構とお考えになって、「悪人」という言葉を人間に与えられたのだろう。
 そんなことを語っていると、ますます〈真・宗〉は理解するのが難しいものかと敬遠されそうだ。まあ、これも「そもそも」という話になるが、〈真・宗〉は「易行難信」である。「易行」とは、口でナムアミダブツと発音することは誰でもできるから「易しい行」だが、その意味を腹の底から納得することはとても難しい、つまり「難信」だ。なぜ「難信」なのかと言えば、それはお釈迦さんが追求した「修道論仏教」が解体されたところから生まれるものだからだ。
 つまり、「HOW TO」という発想から生まれる「行」が解体されるからだ。「如何にしたら、その心境が手に入るだろうか」という問いが死んだところから生まれるものだからだ。覚りを目指して、昨日よりも今日、今日よりも明日に向上しようというこころざしは尊いことだ。人間界では尊いことだが、こと仏道という場面になると、それは「煩悩」とされる。目的を目指して明日に懸けるのは、尊いことだが、それが唯一問題なのは、〈いま〉を否定することになるからだ。つまり、〈いま〉には救われない仏道になってしまう。
 ここにも人間の誤解が生まれる。〈いま〉に満足してしまったら、決して発展しないじゃないかという観念だ。まあ機械の開発であれば、確かにそういう批判は正しい。ただ、ことは人間存在の「生きる意味」に関する問題だから、そう簡単ではない。我々が考える〈いま〉とは、「刹那的な〈いま〉」、「過ぎていってしまう〈いま〉」であって、「永遠から湧出する〈いま〉」ではない。親鸞の意味空間は、「永遠から湧出する〈いま〉」であって、それは決して流れ去るものではない。まあこれは人間の「時間論」の問題になるので、面倒な話だ。
 それはともかく、〈真・宗〉が問題にしている場面は、〈いま〉以外にないということは言える。救われるのは〈いま〉を除いてどこにもない。「いま・ここ・私」を除外したところにはない。救いの方法論を持たせないのは、阿弥陀さんが、〈いま〉救いを成り立たせようとするからだ。だから、救われるためには、何をしてよいか分からないという感想を持たれるのは当然なのだ。この難しさを「難しい」と感じる中に、すでにして「救い」が包含されている。何が、何をして、私に「難しい」と感じさせているのか。そこに答えが包まれている。
 だから、いままでの人生で何も修行をしてこなかったひとも、あるいは仏教とは無縁のひとも、あるいは熱心に長年、仏法を聴聞してきたひとであっても、救われる可能性はまったく同じである。いままでの功績や罪責などの、人間的属性をすべて帳消しにしてしまうのが、〈いま〉である。
 まったく文脈は違うかも知れないが、『聖書』(マタイ書20)に出てくるイエスの譬えと共鳴した。それは、「ぶどう園の労働者」のたとえである。主人がぶどう園で働くための労働者を探していた。朝、広場で声を掛けた労働者には一万円を支払うと約束した。昼にも広場に行って、一万円の賃金で労働者を集めた。夕方にも同じように一万円で雇うと声を掛けてひとを集めた。そしてすべての作業が終わってから労働者を集め、朝から働いていたひとには一万円、昼から働いていたひとにも一万円、夕方から働いていたひとにも一万円を支払った。ところが朝から働いていたひとたちが文句を言うのだ。それは人間の常識から言えば、文句を言うのが普通だろう。自分は朝から汗水を垂らしながら働いてきたのだ。それなのに夕方らからやってきて少ししか働かない者と同じ賃金というのは納得がいかないと。それに対して主人は反論する。そもそも私はお前とは一万円の賃金で契約したじゃないか、だから約束通りに一万円を支払ったんだ、文句を言わずにとっとと帰れと。まあ、主人が言うことも理が通っている。最後には「自分の物を自分のしたいようにしてはいけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか」と言う。この「主人」というのは、いわゆる「神(God)」のメタファーだ。まあこれは「天の国」の話であり、この世の常識ではないという前提だ。
 この譬え話と私の考える〈いま〉が共鳴した。我々は、自分がいままで積んできた修行や経験などを持って、救いに与ろうと救いを得るために、どれほどの苦労をしてきたことか。それは、朝から働いてきた労働者の実感だ。一方、夕方から働き出したひととは、修行などとはまったく無縁のひとだ。朝から働いてきた労働者から見ると、いかにも「ずるい労働者」だ。自分はこれほど苦労して修行してきたのに、ほんの少ししか苦労していないじゃないか。彼と自分が同じ報酬というのは納得がいかないと、主人に文句を言いたくなる。この「朝から働いてきた労働者」とは、法然・親鸞を弾圧した旧仏教の目線だ。仏道修行を日々続けている自分たちと、ただ口でナムアミダブツと発音している人間が、同じ「報酬」(「覚り」や「救い」)では納得がいかないと文句を言っているひとだ。まあ自分の修行や功績を積めば、それに見合った「報酬」が与えられるという「修道論仏教」の発想が、文句を言わせているのだ。それこそ「善人(自力作善)」と親鸞に批判される発想だ。あるいは逆の考えのひともいる。修行や功績を詰んでいない、あるいは詰めない自分は、もともと救いからは縁遠い「悪人」なのだと烙印を押して自暴自棄になるひとだ。どちらも「~する」ということに目が奪われているひとであることに違いはない。
 しかし、〈いま〉は、そういう人間の属性をすべて帳消しにしてしまう。すべてを〈存在の零度〉に引き戻してしまう。そうやって、人間を「~する」という問題関心から救い出す。「しなければ駄目だ」と〈いま〉を否定する発想と、「しなくてもよいのだ」と〈いま〉を肯定しようとする発想を、一刀両断に切り捨てる。そして「いま・ここ・私」を、自分が未だかつて体験したことのないものとして、与え続ける。譬えれば、「宇宙開闢の時」として、〈いま〉を与え直す。そうなってくると、私がいま目にしている光景は、〈いま〉が与えられた後の、つまり、〈いま〉が過去化した世界であることが知らされる。〈いま〉は、人間が「知覚」したり、その後に「認識」できるものではない。そうやって、人間の観念から〈いま〉を救い出す。人間にとっての「過去」も「未来」も、共に人間の「観念」の中にしかないことを炙り出し、〈存在の零度〉へと引き戻す。
 「もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった」という感嘆の言葉を吐かせるものが、〈いま〉だった。これは「因位」からの表現だ。ただもう一つ、「果位」からの表現がある。それは、「もう済んでいるから、これからなのだ」である。これは「弥陀成仏」という「本願成就」からの表現だ。この「本願」(因位)と「本願成就」(果位)とが、留まることなく循環し運動しているのが、私の「日常」だ。だから、「私が生きている」のではなく、運動そのものが生きているのだ。私は、その運動によって動かされている操り人形に過ぎなかった。