3月4日~5日で島根県大田市へ出講してきました。浄土真宗本願寺派の「大田東組」の「組講義」という法座です。テーマは「なぜ?からはじまる歎異抄」ですた。ここは岩見の浅原佐市の生まれた土地で、それなりに仏法の土徳のあるところなのでしょう。ここ大田市は「オオタ」ではなく、「オオダ」と発音しますが、百ヵ寺ほどあるそうですが、すべて本願寺派なのだそうです。
大阪の石山本願寺戦争で信長と戦ったとき、法主・顕如からの支援要請があったそうです。顕如は敵方に悟られないように、文書を仕込み杖の中に収めて、伝達者に渡したと聞きました。その文書が保管されているとのこと。これは憶測ですが、ここに本願寺派寺院が多いのは、顕如さんの支援者が多かったということかも知れません。長男の教如さんの支援者は、東西分派後の大谷派ですからね。それでも教如さんも、岩見の銀山近くに三年ほど逗留されたと聞きます。なんと銀を敷き詰めて彼をお迎えしたという伝説もあるとか。ですから、そうとばかりは言えないのかも知れません。まあ、その時代、その場所では、常識では考えられないような状況が展開しますから、歴史は分かりません。いまNHK大河ドラマで「どうする家康」を放映していますが、家康の右腕とも言われた本多正信は、一度は一向一揆に加勢して謀反人となりますが、やがて家康は彼を許し、重臣とします。なぜ謀反人が重臣となったのでしょうか。それは恐らく二人にしか分からないことなのでしょう。まあ本多正信の発案で、三河から真宗寺院が江戸に多く移設されたということもあるので、彼への恩恵も忘れられません。とにかく彼はアイデアマンだったのでしょう。