事物は「思い」を超えている

事物は「思い」を超越している。リンゴも人間も鳩も、それらはすべて事物だ。これらを見れば見るほど、「思い」を超越していると知らされる。だって、それらを「リンゴ・人間・鳩」と命名しなければ、私にはそれらを、「リンゴ・人間・鳩」として受け取る術がないからだ。
 私の眼球が見ている世界、つまり私に取って、「そのように見えている世界」は、私の思いが「そのように」見せているのであって、事物とは無関係だ。本当のことは、事物に名前がないということだ。人間が事物に名前を付けたから、そのように人間に見えているだけで、それは〈真実〉ではない。どこまでも人間が人間的にだけ見ている世界だ。
 そうなると事物をどう受け取るかということで、そのひとの世界が規定されてくる。だから流動的だ。世界は、決して「客観的」に、誰が見てもそのように見えている世界ではない。一人ひとり、まったく個別の世界を生きている。でも人間は不安なものだから、皆にもそう見えているんだよねと、「客観的」という言葉を作って、それが〈真実〉であるかのごとくに錯覚して生きている。
 身内のお葬式の場面で、葬儀会場の前を、何事もなく、一瞥して通り過ぎる他人がいる。身内は慟哭するほどの悲しみを受け、世界が引っ繰り返るほどの思いをしているのに、そこを通り過ぎる他人にとっては、ありきたりの日常のなかのワンシーンに過ぎない。もし「死」が誰にとっても「客観的」であり、驚天動地の出来事であったとしら、傍を通る他人も、わめき声を上げて悲しんでいるはずである。しかし、現実には、そんなことは起こらない。そもそも、この世を生きているのは、「自我」という遠近法を持った、私という個別だからだ。ひとは〈一人一世界〉をのみ生きているからである。
 お金も流動的だ。つまりそれは相対的という意味だ。河合隼雄先生がタクシーに乗って、目的地に着いたから料金を払おうとしてお金を出したら、運転手が「本当の金を出しな」と言われたら、皆さんはどうしますかと言われていた。お金は相対的だから、相手へのサービスの度合いによって価格が変動する。
 あるインド人が、仕事の関係で日本に暮らすようになって、楽になったことがあると言う。それは、定価で買い物ができるからだと。インドには、定価がないので、買い物はつねに売り手と買い手との交渉によって値段が決まる。値段を吹っかけられたり、それをダンピングさせたりと、買い物には交渉という手間がかる。だから買い物も一苦労するそうだ。しかし、これは金の本質に関係しているから仕方がない。金の価値は絶対的なものではなく、どこまでも相対的であり流動的だからだ。富士山の五合目で売っている水と、八号目で打っている水の値段が変わるのも、そういう理由からだ。水という性質は不変だが、人間の要求の度合いによって金額が変動する。しかし、これはお金の本質であっても、ひとが暮らすには効率が悪い。そこで「定価」という、取り敢えずの値段を決めることにしたのだろう。
 「定価」とは、前もって定められた価格の意味だから、やはり、人間が決めたものに過ぎない。人間が決めたものだから、どこまでいっても相対的だ。もし「定価」が絶対的な価格であれば、料金を支払ってタクシーを降りるときに、「ありがとう」などと言う必要はないのだろう。適正な労働の対価として支払うわけだから。ところが、たとえ運転手にお金を払ったとしても、あなたが運転してくれなければ、私はここまで移動することができなかった、ご苦労をお掛けした、「ありがとう」とお礼の言葉を発するのだ。それは、本当はお金に還元できない行為をしていることをお互いに、どこかで知っているからだろう。価格は、ひとがした仕事量に見合った金額なのだろうけれど、それはどこまでも相対的、つまりは「幻想的」なことであって、本質は仕事に見合った対価などはないことを物語っている。そもそも「物」や「行為」は、決して金銭に還元できないものだからだ。
 目を開けば、世界は、お金に還元できない物で充ち溢れている。これを何と呼べばよいのだろうか。まあ取り敢えず、それを「荘厳」と呼んでおこう。「荘厳」とは、お寺の本堂内部の、仏さんをお飾りするための装飾品のことだ。これも人間の幻想で、本堂内部のことと受け取っているが、むしろこの世界全体が本堂であり、我々はその内部で暮らしている、と私は受け取っている。だから、目の前の事物が、「荘厳」という意味を持つ。「荘厳」は阿弥陀さんをお飾りする事物だから、それはそのまま阿弥陀さんを指さし、我々に阿弥陀さんを教える事物なのだ。つまり、目の前の事物は、阿弥陀さんによって差し出された「荘厳」であり、人間にはその本質の本当の意味は教えられていない。そもそも阿弥陀さんとは、〈無・意味〉という意味だからだ。
 目の前の事物が、本当は人間にとって不可知であると教えられることによって、目の前の事物と自分の「思い」とが切り分けられていく。自分の「思い」では、決して触れられない事物を目の前にしている。事物を「思い」の中に取り込もうとする企みが、ここで事物から暴かれる。そうなると見渡す限りが、原始林だ。人間の「思い」とは別次元の世界が展開している。
 事物の世界は「言葉」を超えている。だから人間には、指一本たりとも触れることができない。これに気付いたら、事物が輝きだし、世界が輝きだした。限りなく透明な事物の世界が、目の前に広がっていく。