「Fujitsu」が「不実」とは

朝、目が覚めて、パソコンのスイッチを押して電源を入れた。そうしたところ、一番初めにディスプレイに表示された文字は「Fujitsu」だった。ええっ!とビックリした。何と「不実」と読めてしまったからだ。
 小生のパソコンのメーカーの名前は「Fujitsu」だが、それを「ふじつ」と変換し、さらに「不実」と変換してしまった。つまり、お前は「不実」の者であって、お前には〈真実〉はないのだぞと。対面するパソコンからも、そのように教えられるとは思わなかった。
 小生は、子どもの頃から、「スネ夫」だった。どうせ自分は親から愛されていない存在で、自分は情けない存在で、親を喜ばせることなどできない駄目な存在だと思っていた。だから、自分には〈真実〉の欠片もない存在だと思い続けてきた。自己評価の低い、根暗なオオカミだった。(ああ、連続強盗団の人間たちのこころと通底しているなあ)
 オオカミは、いかにも私は〈真実〉を知っていると思っているようなひとを許さなかった。それは自分にも〈真実〉はないのだから、他の誰においても、〈真実〉など分かって堪るもんかという恨みの表れだったのだろう。
 そんなとき、安田理深先生の次の言葉に出遇った。
「真理もないのに迷っているということは言えない。なぜかというと迷うということは真理に迷うのですから。真理もないのに迷うということは成り立たない」(『親鸞における救済と自証』第2巻・東海相応学舎)
 この言葉に出遇う前、私は、ただ闇雲に「迷っている」と思っていた。私には〈真実〉の欠片もない、つまり「迷っている」と思い込んでいた。ところが安田先生は、「迷う」ということが成り立つためには、「迷い」の法則があるという。その法則こそ「真理」であり、「真理」の法則に従わなければ、「迷う」ということも起こらないのだと。
 私は、だだ闇雲に、「自分は迷っている」と思い込んできた。しかし、それは大きな間違いだと教えられた。「迷う」のには、「迷う」だけの法則があり、その法則に従って「迷っている」のだから、その法則に目覚めることによって「真理」に触れることができるのだとおっしゃる。と言うよりも、「真理」に従わなければ、「迷い」も「迷い」として成立しない。「迷う」ということも「真理」の法則の内部のことなのだと教えられた。この言葉に出遭ってから、私のこころを閉ざしていたトバリが開かれ、黎明が訪れたように嬉しかった。
 いままで、自分には〈真実〉はないと思い込んできのだが、それは自分で自分を低く自己評価してきただけなのだ。その暗い気持ちを「迷っているからだ」と思い込んできた。突き詰めれば、「迷う」のは自分が悪く、劣っているからであって、自業自得なのだと拗ねていた。まあ、『歎異抄』第9条の唯円房と同じように、自分の努力不足でお念仏が喜べないのだと、自己評価を下げていただけなのだ。「過失は自分にある。だから、罰を受けるのは当然だ」と自罰的に、そして自虐的に生きてきた。
 その自己評価を「自力」というのだと教えられた。こうなってくると、私の考えることすべてが、〈真実〉の法則の内部のことに変換されてしまった。それでは、それから自分は、ずっと〈真実〉の内部にいるのかと言えば、そうではない。「迷っていると考える」のも、「〈真実〉の内部にいると考える」のも、その両方の「考え」を当てにしなくなっただけだ。つまり、「思い」と「自分」とを切り離せるようになったのだ。「思い」とは「煩悩」の別名で、「正信偈」でいう、「遊煩悩林現神通」だ。これを親鸞聖人は、「煩悩の林に遊びて、神通を現じ」と訓読されている。まさにこれは親鸞の実感だったのだろう。いままでは煩悩の林の木々にぶつかり、迷いながら、茨で傷だらけになってきたのだ。それが林の木々にぶつかることもなく、スルスルと身を交わし、自由に林の中を遊べるようになった。だから、どんな「思い」が湧いてきても、その「思い」に一喜一憂することがなくなった。いや、それは正確ではないな。「思い」は一喜一憂するように出来上がっている。一喜一憂するのが娑婆の本質だだ。しかし、一喜一憂は、必ず消え去っていくのだから、放っておけばよいのだ。
 いままでは、自分の「思い」の中に「不実と真実」を閉じ込め、「自分は迷っている」と思ってきたが、それらすべてが、「思い」の中の出来事だった。そしてすべてを「思い」の中の出来事だと教えてくれるものをこそ、〈真実〉と仰いでいけばよいのだ。〈真実〉は自分と対面するものであって、決して自分には属さないぞと教えるものである。だから、パソコンの画面に映った「Fujitsu」が、「不実」と迫ってきたことに驚きと共に、有り難さを感じた。お前の中には〈真実〉の欠片もないと、「思い」を切断して下さる阿弥陀さんが立ち上がって下さったのだ。
そうそう、パソコンに電源を入れることを、「立ち上げる」というが、これこそ〈真実〉の阿弥陀さんが立ち上がって下さる姿なのだろう。パソコンが阿弥陀さんのはたらきをして下さるとは。パソコンも「真理」の内部の出来事だったのか。