「回向文」への違和感

あるひとから、お勤めのとき、最後に、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という回向文を読むが、どうしても違和感があるという。これをどのように考えたらよいかと。確かに、作法として、お勤めの最後に、この回向文を上げることが多い。これは善導大師の「勧衆偈(帰三宝偈・十四行偈)」の末尾にある回向文で、
「願わくは、この功徳をもって、平等に一切に施して、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。」と訓読する。「勧衆偈」の冒頭は、「先ず大衆を勧む、願を発して三宝に帰し」で始まるから、明らかに善導大師が、大衆に向かって三宝に帰依することを願われている偈文である。そうなると、末尾にある回向文は、やはり、善導大師が大衆に向かって述べていることになる。
 しかし、この回向文をお勤めで、声に出して発声すると、どうしても読経している自分が大衆に向かって願うというスタンスになってしまう。質問者は、そこに違和感を感じたというのだ。自分は、人々に向かって、そんなことを表明できるほど立派な者ではないというのだ。確かに、そう言われてみれば、そのとおりだ。私も、法要のときに、この回向文を上げるが、どことなくしっくりこないと感じていた。
 そこで「意味転換」が必要になる。自分が読んで人々に伝えるという意味空間ではなく、自分が聞き手に回るという読み方だ。それを私は「聞き言葉」として受け取ると言っている。 
 回向文を意訳すれば、こうなる。「もし願うことが出来るのならば、苦悩するあらゆる存在に阿弥陀如来のおはたらきをお伝えし、阿弥陀如来の願いを同じように受け止める信心を発し、阿弥陀如来の国へ生まれようではありませんか」と。これを私が人々に向かって願うことでなく、善導大師が大衆に向かって、つまり私に向かって呼びかけていると受け止めるのである。このように「意味転換」すれば、まずは違和感なく読めるのではなかろうか。
 まあ、そうは言っても、実際の読経の場面では、それが揺れ動いてしまう。葬儀の場面では私が導師としてお勤めし、参列する会葬者は聴衆として聞いているのだから。どうしても私が大衆に向かって願うというスタンスが浮かび上がってしまう。ただ、そのことを「違和感」として揺さぶってくるものがあるのだ。こういう「違和感」を引き起こしてくるはたらきを、阿弥陀さんというのだろう。本当のことは、善導という人間をも透過し、私にまで訴え続ける阿弥陀さんが叫んでおられるのだろう。