「慚愧と懺悔」の違い

昨日のBサロンでは、「慚愧と懺悔」の違いなどが話題になった。「慚愧」とは、反省・後悔の思いであり、このこころは人間が人間であることを裏付けるようなこころであると『涅槃経』に出てくる耆婆は述べる。これは親鸞が『教行信証』(信巻)に引用した「阿闍世の回心物語」の中に出てくる。阿闍世は父王を殺した罪の重さにうろたえた。それを慰めるべく、六人の大臣が尊敬するインド思想家を紹介する。しかし、阿闍世の苦しみは癒えなかった。六人の思想家を一言で煎じ詰めれば、「罪の正当化であり、合理化」である。
 そこで耆婆大臣(医師)がやってきて、後悔と罪責に苦しむ阿闍世と会う。耆婆は罪の正当化はしない。苦しんでいる阿闍世を、苦しむのは当然だと、共感する。それがひとというものの証であり、それを失ったら人間ではないのだと。この共感を得て、阿闍世はお釈迦様へ導かれる。
 お釈迦様は、慚愧に苦しむ阿闍世に向かって、お前に罪があるのらば私にも罪があるのだと言う。これは何を言っているのかと言えば、お釈迦様の謝罪である。阿闍世が罪を犯すような因縁を作ってしまったことへの謝罪である。この謝罪を経て、阿闍世は「慚愧」から「懺悔」へと深まっていく。そしてあらゆるひとが苦しんでいるなら、その苦しみの大地を、我が大地としようと立ち上がる。これが「無根の信」と評される。「根が無い」というのは、自分の内部に信は成り立たないということの表明である。まあ親鸞の視線を借りれば、それは「如来回向の信」となる。人間の側には「信」は成り立たない、如来から浴びせられ続けるものであるという確信である。まあその「信」とは、言葉を換えれば「願」なのだ。「信」と「願」とは同義語なのだ。
 「慚愧」とは、人間的な感情であって、これは人間である限り止めることはできない。しかし、「慚愧」にも深さがあって、「しまった!悪いことしちゃったな」という程度の後悔もあれば、「取り返しの付かない罪を犯してしまった。これは死んでも詫びることができない」という深い慚愧もある。阿闍世の慚愧は、後者の慚愧だろう。心身症にまでなり、身体の膿からは悪臭が発するまでに苦しんだ。
 しかし、「慚愧」がどれほど深くても、それは「懺悔」ではない。「慚愧」とは、自分の過去の所業を後悔し、その罪を帳消しにしようとするこころだ。つまり、罪と自分を切り離して、罪無きものになろうとする「善人根性」である。『歎異抄』(第三条)で言えば「自力作善のひと」である。私は「慚愧」のこころを引き起こすものを「裁きの自己」と呼んでいる。「慚愧」は、自己が犯した過去の所業を後悔している、その奥に隠れている「裁きの自己」が見えない。「懺悔」とは、「裁きの自己」にひかりが当たることによって、「裁きの自己」が自覚化されることである。
 その転換を引き起こしたものが、お釈迦様の謝罪である。これを一言で言えば、「お前には罪はない」ということだ。この表現は、先ほどの六人のインド思想家の「罪の正当化」と似ているが、微妙に違う。親鸞の引用の意図は、親鸞に聞いてみなければ真意は分からないのだが、私から言わせると、この「阿闍世の回心物語」は、カウンセリングノートのように見える。つまり、阿闍世のこころの変遷を後から記録したものだ。だから、お釈迦様のこの表現が、もし「慚愧」を経過しなければ「懺悔」には結びつかなかったかも知れないのだ。つまり、もし六人のインド思想家の中にお釈迦様が登場していたならば、「懺悔」は成り立たなかっただろう。そこに耆婆が「慚愧」への共感を経て、「慚愧」を深化させたことで、「懺悔」に導かれる道が開かれたのだ。
 だから、阿闍世は、思っても見なかったところから降ってきた、「お前には罪はない」というお釈迦様の言葉を、驚きをもって受け止めたに違いない。正確な言い方は、こうだ。「汝、父を殺して、まさに罪あるべくは、我ら諸仏また罪ましますべし」(『教行信証』信巻)だ。阿闍世が父を殺さなければならない必然性は私にもあるとお釈迦様が発言することで、阿闍世の罪を共に担われた。ここで阿闍世の無罪性が成り立ったのだ。この無罪性が成り立つことによって、あらゆる罪と一体化する器が用意されたことになる。この無罪性とは、「さるべき業縁のものおせば、いかなるふるまいもすべし」という『歎異抄』(第13条)の意味に通底する。罪を作るか作らないかは、業縁が決定することであって、自分にはそれを云々する権限はないということだ。だから業縁が主体であって、自己はそれに従っているに過ぎない。
 「慚愧」の阿闍世を苦しめていたものは、「裁きの自己」である。これは自分の意志次第では善いこともできるし悪いこともできると考えている「自力のこころ」だ。だから悪いことをした自分を裁き、罰し、その自分を自分自身から切り離して、清いものになろうとする。その構造が見えたとき、「裁きの自己」が対象化され、裁きの効力を失う。
 それは罪を免れたのではなく、罪と一体化したことである。『蜘蛛の糸』で、地獄から這い上がろうとした犍陀多が、糸を切られて地獄に舞い戻っていったのと同じことだ。彼は地獄に落ちることによって、救われたのだ。そこは一切衆生の苦悩の場所であり、そこ以外に救いの必然性はないからだ。もし犍陀多が極楽浄土へ這い上がれたとしても、そこに救いはない。極楽浄土は救いの必然性が消滅した場所だからだ。
 阿闍世の言い方は「我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむっとも、もって苦とせず」(『教行信証』信巻)だ。なぜそう言えたのかと言えば、苦悩を救ってくださる阿弥陀さんに出遇っているからだ。『涅槃経』はお釈迦さんと書かれているが、親鸞が見ているお釈迦さんは、どこまでも「教主」であり、「救主」は阿弥陀さんだ。救いの道理を説かれるのはお釈迦様だが、救うのは阿弥陀さんの仕事だ。
 話し合いの途中で、「懺悔」とは、「自分が許せた」ということかと質問を受けた。それはそうなのだ。いままで許せなかった自分が許せたということだ。しかし、それは罪の正当化とは違うの。罪と一体化することで許されたのだ。縁次第では、何をしでかすか分からない恐ろしいものが自分だと目覚めたのだ。
 以前、私は『底抜け語録』で、「よいことも わるいことも みんな阿弥陀さんのせい」という語録を書いた。これは、相田みつをさんの「いいことはおかげさま わるいことは身から出たさび」への違和感から生まれた言葉だ。初め私は、相田さんのこの言葉こそ宗教倫理の極致だと思っていた。「わるいことは身から出たさび」、つまり悪いことはすべて自分自身の自己責任だという考えだ。それは確かに正しいのだが、まだそれは「小我」の次元のことではないかと感じた。本当は、「よいことも、わるいことも、みんな阿弥陀さんのせい」にまで突き抜けなければ「大我」にはならないと思った。罪を自己責任と受け止めるのは、まだ「慚愧」の次元だ。どこかで自分で自分の罪は引き受けられるものだ、引き受けねばならないという傲慢が潜んでいる。その底が突き破られると、「よいことも、わるいことも、みんな阿弥陀さんのせい」になる。だから自己責任という幻想から脱する。それが無責任じゃないかと見えてしまうのは、そのひとがまだ「小我」の次元にあるからだ。「小我」が見れば「さるべき業縁のものおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉も無責任主義に見えたしまう。本当は、この言葉は「大我」の次元を表現した言葉なのだ。一言で言えば、「絶対他力」ということになる。動かされて動き、考えさせられて考える次元だ。
 そうやって「慚愧」の残滓がすっかり取り払われて「軽微」になる。
「大我」の次元とは、私が〈一人一世界〉と呼んでいる世界だ。そこは「業縁」のみで蠢く世界であり、人間の意志を信頼しない世界だ。いままで「自分」と呼んでいたものが客体になり、「阿弥陀さん」が主体となる。