「最初と最後」という関心

人間が考える、〈いま〉は、本当の〈いま〉ではない。なぜなら、〈いま〉と思ったことが、すぐ過去に飲み込まれるからだ。そして〈いま〉と発音すれば、必ず、「い」と「ま」に間が生まれてしまうからだ。いくら「い」と「ま」を「いーーーーーーーまーーーーーーー」と発音したとしても、初めの「い」と、最期の「ま」が生まれてしまい、まるで長い帯を垂らしたように幅が生まれてしまう。幅のあるものは空間であって、時間ではない。
 そうなると、「本当の時間」とは何だ、と人間は考えた。私はそれを「流れない時間」と言っている。まあこれも「流れる時間」しか知らない人間が考えているわけだから、本当のところはよく分からない。「眠り」は、ひとが意識で体験できないにも関わらず、「眠り」とは何かを知っていて、体験しているように思っているようなものだ。
 そこで「流れない時間」を「永遠のいま」と言ってみたりしてきたのだろう。〈いま〉が満たされていれば、いままでの過去がすべて生きてくるし、〈いま〉が満たされなければ、過去はすべて恨みの種に変化する。人間の問題は、〈いま〉をどう受け取るかに懸かっている。
 取り敢えず、「本当の時間」を人間は生きられないということだけは、確かなことなのだ。「流れる時間」は、「流れない時間」と隔絶している。それだから、「流れる時間」をどのように受け止めるかという人間界のことしか言及できない。〈いま〉をどう受け止めるかによって、過去と未来が変化するのも人間界の出来事に過ぎない。
 そこから自分の人生をどのような「物語」で描くかという領域に入る。「物語」というと、安っぽそうに感じられるが、それは「物語」という言葉をお伽話やメルヘンだと感じてしまうからだ。その夢から覚めて、よくよく自分の人生を考えてみれば、「物語」の主人公として人生を生きていることに気付くだろう。これは代替え不可能な「物語」であって、〈唯一人〉にしか生きられない「物語」である。
 さらにこれが「物語」であるためには、「最初と最後」も描かれていなければならない。まあ、自分の「最初」、つまり、誕生からいままでのことは「物語」で描けても、これからと、「最後」は描くことが難しいのではないかと思ってしまう。そうは思っていても、本当の「最初」は知らないのだ。誕生した途端に明確な意識が出来上がるわけではない。いつしか物心がついてからのことを「最初」と呼んでいるだけだ。これも人間界の出来事であって、「本当の最初」ではない。それから「最後」、つまり誰にでも訪れる「死」というものも、人間が知っている程度の「死」であって、「本当の最後」ではない。突き詰めて行くと、人間は「本当の最初」も「本当の最後」も知らないのだ。
 しかし、人類というものは、「最初と最後」を知りたいという無意識的欲求を持っている。西洋一神教が生まれた必然性も、その辺にあるのだろう。旧約聖書の冒頭は、「はじめに神は天と地とを創造された。」から始まっている。ここに「はじめに」が書かれている。それでは「最後」はどう書かれるか。これはよく分からない。イエスは天に昇って神の右に座られたとか、終末に最後の審判があるとか。
 それはそれとして、他でもない〈唯一人〉の「最初と最後」を包んだ「物語」を描きたいという欲求を満たしたい。西洋一神教を生み、そして浄土教思想を生むような人類の無意識的欲求が私を突き動かす。
 まあそれに呼応するようにして、親鸞の「和讃」である「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」がある。「弥陀成仏」とは、あなたが見ている世界の景色は、阿弥陀さんの内部だということだ。この景色が成り立つためには「十劫」という時間がかかっていると。それが同時に「いま」の光景だというのが面白い。永遠の過去からと、永遠の未来からの「いま」が「弥陀成仏」として成り立っている。こういう「物語」に参与してみますかと、阿弥陀さんは誘っている。
 だから、人間が「主」であり、仏さんは「従」なのだ。我々の無意識的欲求こそが「主」だ。それに答えて「従」としての阿弥陀さんが要求されてくるだけだ。